Sunday, November 15, 2009

ギーゼキングのベートーヴェン「皇帝」(1945年1月ステレオ録音)

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73 『皇帝』
ヴァルター・ギーゼキング(Walter Gieseking/1895-1956,ピアノ)
アルトゥール・ローター(Artur Rother/1885-1972,指揮)
ベルリン帝国放送管弦楽団(盤中表記は Grosses Funkorchester)
1945年1月23日録音(STEREO)
米MUSIC&ARTS CD-1145


録音史上において最初期に属する、ステレオ方式で記録された音源。


ステレオ録音の実験としては、1930年代にベル研究所が着手したものや、1940年公開のディズニー映画「ファンタジア」における、特異なマルチトラック収録・再生の試みなどが挙げられる。
しかし、我々が現在オーディオで鑑賞出来る音源の中で、今日的な「ステレオ録音」の概念と一致する音響を実現したものとしては、ナチス政権下のドイツ帝国放送局がマグネトフォンを用いて行った、1944-45年の放送用音源をもって「史上初」と定義して良いのではないかと考える。


ここに復刻されたギーゼキングの独奏による協奏曲は、単なる実験記録としての意義にはとどまらない、驚くべき高いクオリティを示している。
元よりドイツで当時採用されていたマグネトフォン(テープ録音の原型)機器による録音は、録音の起源以来行われてきたレコード盤面へのダイレクト・カッティング方式とは異次元の明瞭な音質記録を実現していた。それに加えて、ここでは既に極めて高度な立体音響が成されている。
明瞭な音質と、ほぼ安定した定位、録音年代を伏せて聴いたなら、これが第二次大戦中、1945年の録音であると言い当てることは出来ないだろう。



個人的に、この音源と自ら出会う機会が今になったことを、遅過ぎたのか機が熟したのかよく分からずにいる。CD初出は今を遡ること15年以上も前だし、文献で読み知ったのも同じくらいの時期だ。しかし、何やら如何物食いめいた物々しさを感じたまま、ずっと接する機会も設けず時を過ごしてきた。
それが先般、偶々掲出のHMVサイトで「在庫あり」の状態となっていることが目に留まり、何となく興趣が昂じて発注した次第。MUSIC&ARTSというレーベルは供給が不安定で、一回あたりの生産ロットが払底したら、次はいつ入荷するか分からない。それもこの音源を長く逸してきた要因の一つだ。
手に入るうちに聴いておくのも悪くはないか、という程度の軽い気持ちで初対面と相成った訳である。


結果としては、あまりの素晴らしさに愕然とするばかりだった。間違いなく、一期に必ず出会っておくべき音源だった。
素晴らしい音質、そして、感動的な演奏!


音質については、先に触れた通り。異常とさえ言える質の高い記録だ。却ってあたら言葉を連ねないことを以って他に、その物凄まじさを強調する術は無いと感じる。実際に聴いて驚くのが、誰にとっても最上の喜びだろう。


そして、この演奏はどうだろうか。
従来個人的に、ギーゼキングというピアニストに対して関心を持たずにいたことを大いに悔いることとなった。
このピアニストは、現代的で万能な奏者としての側面ばかりが無闇と強調され過ぎなのではないか。こうして年代不相応の音質で接する演奏は、紛れも無く古き佳き時代の、極めて丹念な手工芸の姿を呈している。入魂の輝かしい音色が、豪壮な作品の楽想を否応なく昂ぶらせる。特筆すべきはアルトゥール・ローターの指揮による管弦楽で、単なる添え物どころの話ではない。行き届いた采配と、重厚でいてしなやかな音響、そして終始漲る緊張感は、何やら尋常ならざるものを感じさせる。


そうだ、この演奏は総じて尋常事ではない。時折混入する奇怪な重低音は、国防軍の高射砲なのだと言う。ドイツにとっては、時既に敗色明らかな大戦末期なのである。この録音の僅か3ヶ月後には、凄惨なベルリン市街戦の火蓋が切られるのだ。
言うなれば、これは破滅の瀬戸際に行われた記録だ。そして、人間は絶望的な危機に瀕してなお、かくも美しくあろうとするのだということを、接する者に思い知らせずにはいない。


私としては、とうに厭いてもはや進んで聴くこともなかった「皇帝」という作品だが、唯この音源一つを以って、かけがえの無い存在となった。
このような音楽は、求めてもそう多くあるものではない。
 
 

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Saturday, August 29, 2009

24のプレリュードとフーガ/ニコラーエワ(1962年第1回録音)

ショスタコーヴィチ:24のプレリュード(前奏曲)とフーガ
タチアナ・ニコラーエワ(Tatiana Nikolayeva/1924-1993,ピアノ)
1962年録音(STEREO)
Venezia CDVE04363

長らく入手困難になっていた音源だが、先般Veneziaが焼き直してくれた。CDとしての発売はかれこれ15年以上前、まだJVCがMELODIYA音源を扱っていた頃に一度あった限りの筈だ。
私はその時分にはこの作品に開眼するどころではなかったので、今回Veneziaからの廉価発売をもってようやく耳にすることが叶ったという次第である。

この作品の被献呈者であるニコラーエワの第2回録音(1987)と第3回録音(1990)については、既に聴き知っていた。いずれも非の打ち所の無い演奏記録として世評は固まっているところではあるけれども、個人的には受け入れ難い演奏だと感じていた。
この上なく端整を極めた演奏ではあるものの、私の好みから申せば、あまりにもソリッドなのである。言うなれば意匠図案を眺めているような気分で、情緒に乏しいのである。
情緒などというものに何故拘泥するのかと言えば、結局は私の個人的な体験と嗜好に帰する問題でしかない。私が初めて触れたこの作品の演奏が、他ならぬショスタコーヴィチ自身による抜粋演奏だったからである。
これは1958年、健康問題からショスタコーヴィチの演奏技能に重大な翳りが見えていた時期の録音だ。それにも係わらず、あらん限りの気力を込めて打ち立てられたこの演奏は、対峙するものの心を動かさずにはおかない。殊に終曲第24番に横溢する巨大な精神と意思は、演奏技能という「手段」に収まりきらない概念が確かに実在することを知らしめるのである。
このような演奏によってもたらされる感興を、それ以後の世代による全曲録音に対しても求め続けるのは、なかなか辛いものがある。だが、私は求めずにはいられなかった。そうして、長らく満たされぬ心持ちでいた。何種類も全曲盤を買い集め、幾ばくかでもショスタコーヴィチ自身による演奏に通ずる雰囲気を参酌しながら、ひとまずは間に合わせていた。

そして、長らく入手が叶わなかったニコラーエワの初録音、この音源には何となく、自分が求めているものが宿っていそうな気がしていた。根拠は無いが、ショスタコーヴィチ自身が健在であるうちに製作された、恐らく唯一の全曲録音であるという意義付けは、やはり特別であるように思われたのである。
求め続けてこの度ようやく聴き得たこの音源は、果たして大変に素晴らしかった。
ソヴィエトにおける最初期に属するステレオ録音なので、音質は甚だ痩せていてすぐれない。だが、それさえも時代の刻印として取り込んでしまったかのようなニコラーエワの演奏は、代替するものをほとんど認めさせない程の説得力を有している。総じて力強く、終始弛まぬ推進力は、当時もはや自力で弾くことも覚束なくなりつつあった作曲家自身の志を、そのままに受け継いでいるかのようではないか!
ここに及びようやく、私は思い描いていた演奏像によって完成された全曲盤に出会うことが叶った。

ショスタコーヴィチの「24のプレリュードとフーガ」は、20世紀に創造されたピアノ作品の中でも抜きん出て優れた作品だ。世に広く普及している一部の交響曲のイメージをそのままに、ショスタコーヴィチという作曲家に対して辟易している方があれば、まずはこの作品からのアプローチをお勧めしたいと常々私は考えている。
これは決して晦渋ではなく、日頃親しむに何ら不足の無い作品だ。ショスタコーヴィチという作曲家が自らの才知と技法の精髄を以って編み上げた、美しき音楽の時祷書である。
 

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Thursday, August 20, 2009

マエストロ・ニヤジ

今日はアゼルバイジャンが誇る偉大な指揮者・作曲家、マエストロ・ニヤジ(Maestro Niyazi/1912-1984)について。

ニヤジ、本名はNiyazi Zulfigar ogli Tagi-Zade Hajibeyov(長い…)。
叔父にはアゼルバイジャンにおけるクラシック音楽の祖とも言える作曲家、ウゼイル・ハジベヨフ(『ガジベコフ』とも。Uzeyir Hajibeyov/1885-1948)をもち、同門一族は数多くの音楽家を輩出している。そうした状況にあって混同を避けるためか、あえてファーストネームのみで活動した点が特徴的な人物だ。先立ってはピアニストのソロモンなどが同様の音楽家として連想される。
ソヴィエト政権下において、アゼルバイジャン出身者としては随一とも言える国際的キャリアを積んだ音楽家と言えるだろう。
アゼルバイジャンでは在世中から現在に到るまで国民的芸術家「マエストロ・ニヤジ」として広く慕われているようで、その名を冠した貨物船がカスピ海で就航していたりする。
(実はこれ、本来は艦船の等級なのです。正確には『マエストロ・ニヤジ級一般貨物船・マエストロ・ニヤジ』ということです。一隻しか在籍がないのでわかりにくいですが…。『ニザーミー級』なんてのもありますね。)

尽きせぬ関心を喚起される音楽家ではあるものの、とにかく音源が全然出てこない。数少ない音源や情報を珍重しながら、やがて来るべき「ニヤジ黄金時代」を待ち望みたいところだが…。

そうこうしていたら、つい先日、youtubeにニヤジの映像が公開されているではないか!!

ウゼイル・ハジベヨフ 歌劇「盲人の息子」序曲

実は私、mixiでニヤジのコミュニティを運営していたりします。
ご関心の向きは是非ご参加下さい^^

ひとまず今日はここまで…。
また入手可能音源等のインプレッションを含めて書きたいと思います。 
 

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Sunday, August 16, 2009

5周年と8万HIT御礼

長らく更新をご無沙汰して申し訳ありませんでした。
実はこの夏、ココログのログイン用アカウントが変わった際にゴタゴタしまして、しばらく自分のアカウントが不明になってしまいました。更にその後、2001年来使用してきたPCが壊れ、そのリカバリにも手間取っていました。
そうこうしているうちに、当ブログ「銀璧亭」は8万HITを達成、また、来る25日で開設以来5周年を迎えることとなります。日頃のご厚誼に感謝申し上げます。

さすがに5年も経つと身辺も物事の考え方も随分と隔たってくるものです。あちこちに余分な力が入り妙に気取った文面は、ブログの運営と隔たった日常的なキーワード検索等で不意に出くわして、内心狼狽することもしばしばです。当時の記事に今更手を入れるつもりはありませんが、振り返るには心中容易ならざるものがある過去の荷物です。

まだまだ一層の改善を期しながら、今後も更新に臨みたいと思います。
よろしくお願い致します。
 

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Saturday, May 30, 2009

ギリヤーク尼ヶ崎、白川軍八郎

京都文教大学人間学研究所主催の公開シンポジウム、「鬼の踊りから祈りの踊りへ~大道芸人・ギリヤーク尼ヶ崎 40年の軌跡」(2009年5月30日13時~16時・於・五條会館)へと足を運んだ。
大道芸人・舞踊家ギリヤーク尼ヶ崎が、生い立ちから長い芸歴にいたるまでを自ら振り返るという内容。専ら街頭での公演を活動の場とする人だから、こうした形式でのイベント出演はとても貴重な機会だ。
映像の上映、談話の後には「じょんがら一代」「よされ節」念仏じょんがら」の舞踊上演まで行われた。ファンをもって任ずる者にとっては、本当に逸するべからざる貴重な機会だったと思う。
舞台でギリヤーク尼ヶ崎の舞踏を鑑賞する機会は極めて稀なことで、一体どんな内容になるだろうかと期待と不安が入り交じった心持ちだったが、それはご本人も全く同じだったことが公演後の言葉で明らかになった。オーディエンスに対して頻りに「舞台でも大丈夫でしたか」と訊ねる、飾ることのない謙虚さに心打たれる。大丈夫、どころか、街頭では雰囲気に気圧されてなかなか見届けることのできない、細かなニュアンスの豊かさを新発見し、深く感じ入った。演目のクライマックス「念仏じょんがら」で、街頭のように水を被ることができない代わりに、紙吹雪が用いられていた。あのアクションは進行上欠かせない重要なものなので、会場の制約を克服し、なおかつ視覚に訴える形に昇華したアイディアには唸らされた。
肺気腫を患い、ついには昨年末心臓ペースメーカー施術を受けなおあの激動の舞踊を続ける意志力には感動するほかない。身体能力の限界と常に直面しながらの舞踊公演は対峙する者に「痛み」を共有させずにはいられないが、それだけに訴求する力の強さはいや増しに増し続けている。

さて、ギリヤーク尼ヶ崎と聞けば何と言っても「じょんがら」だが、このシンポジウムで面白い話があった。自身の舞踊とじょんがらの「なれそめ」について回想される中で、旅回りの津軽芸能の公演を幼い頃に鑑賞して強い感銘を受けたというエピソードがあった。「ほら、あれが日本一の三味線弾きだよ」と言われ指し示されたその弾き手の素晴らしさが今も根底にあるのだ、と。そして自身が舞踊に用いている津軽三味線は、その弾き手のものなのだ。かつて高橋竹山という名手があったが、と引きつつ、その弾き手は更に古い世代の人で、もっと速く弾く、それが自分の「じょんがら」にはピッタリなのだ、と。
その時は、具体的に誰という名は出されなかった。それが私にはどうしても気になったものだから、公演後、ギリヤークさんに直接訊ねてみた。「その弾き手は、ひょっとしたら白川軍八郎ですか?」と言うと、ギリヤークさんは「そう、よくわかったね!」と嬉しそうに仰った。「もう誰も知らない人だと思っていたから、まさか言い当てられるとは思わなかったよ。自分が子どもの頃に聴いたのがまさに白川軍八郎だった。三橋美智也の先生で、日劇で師弟協演の公演をやって…」云々。今でも青森で公演を行うと、年配の人からは「白川軍八郎だね」と指摘されることがあるという。昔の人はそれと聴いてまだ判るのだ。
私にとっては何と言っても空前絶後の津軽三味線奏者、白川軍八郎。そして、ギリヤーク尼ヶ崎が、かくも深い由緒から白川軍八郎の三味線を長年舞踊に用いてきたのだという事実に接し、この上ない感動を覚える。惹かれ合うべき者同士が自然に結びついた成り行きに相違あるまい。大道で歳月を重ね、荒々しく磨かれ続けたその芸の源流は、想像を遙かに超えて深い。

白川軍八郎については、2004年の当blogエントリー、津軽三味線(1)─白川軍八郎をご覧下さい。
 

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Friday, April 17, 2009

ドゥシーク,ヴィルトゥオーゾの誕生

ボヘミア出身のピアニスト・作曲家、ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(ドゥセック、ドゥシェックとも/Johann Ladislaus Dussek/1760-1812)の伝記については、ウィキペディアに詳しいので、そちらをご参照されたい。
エカチェリーナ2世やマリー・アントワネットを魅了し、不倫の果てに友人クルンプホルツを入水自殺へ追いやった美貌の音楽家。そして破産と生活の荒廃、極端な肥満による演奏続行の断念。
まさに疾風怒濤を地で行く、劇的で燃え尽きるような生涯を送った人だ。
ピアニストとしては英国の楽器職人ジョン・ブロードウッドに特注した大音量のフォルテピアノを駆使し、同時代にとって圧倒的に斬新なレパートリーを自ら切り開いていった。
その素晴らしい才覚の片鱗を窺わせるCDが、今回ご紹介するセットだ。

ドゥシーク:ピアノ・ソナタ集/アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)

C.P.E.バッハ(J.S.バッハの次男)による直接・間接の影響がドゥシークには見られるということだが、なるほど、確かにフォルテピアノの音域を前提とした先鋭的な作風は相通ずるものを感じさせる。モーツァルトとほぼ同世代人でありながら、モーツァルトがその短命故に為し得なかった作風にドゥシークは到達しているように思われる。このセットに聴かれる1790年代のソナタには、ベートーヴェンの画期的なピアノソナタ第12番「葬送」を先取したとも言うべき激情がある。
そして更に作風を深化させたソナタ「哀歌」「パリへの帰還」の圧倒的な迫力はどうだろう。仮にこれらの作品がモダンピアノのレパートリーとして取り上げられたなら、目隠しでは作曲家の世代も作曲年代も言い当てられなくなってしまうのではないだろうか。
ここで1805年製ブロードウッド・ハンマーフリューゲルを駆使するシュタイアーの才覚は、まったく瞠目すべきものだ。楽器のスペックを限界まで引き出すように没入しきった演奏は、ドゥシークが同時代においてどれほど時代の先へと進んでいたかを如実に思い知らせる。鮮烈な技巧がもたらす音響は、既に19世紀中盤に向けて開花してゆくヴィルトゥオーゾの黄金時代を胚胎したものだ。
このドゥシークこそが、まさしくピアノにおけるヴィルトゥオーゾの嚆矢なのではないだろうか。それと同時にドゥシークは孤高の境地に入ったまま完結してしまった音楽家であるように思われてならない。
古典派にも、初期ロマン派にも属さないドゥシークの音楽。ピリオド演奏という枠にとらわれず、より多くを聴きたいものだと願う。

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Wednesday, April 08, 2009

マーラー/大地の歌/ワルター指揮(1936年ライヴ)

何かと落ち込み激しい時には、いつの間にかマーラーを聴いている。
ここ数日はワルター/ウィーン・フィルによる1936年ライヴ録音の「大地の歌」(テノール:チャールズ・クルマン/ソプラノ:ケルステン・トルボルク)。

「大地の歌」という作品は、まるで苦い古酒のようだ。
最古の全曲盤である同録音は、その酒がまだ蔵から出されたばかりの頃の芳香を伝えていると思う。
ウィーン・フィルのコンサートマスターは、当時まだアルノルト・ロゼー(マーラーの妹婿)が勤めている。
不揃いな所もあるが、今のオーケストラからは失われた前々世紀の匂いがする。そこに我を張らないワルターの指揮が、却ってスコアに込められたメルヒェンとミステリウムを顕わにしている。

声楽のクルマン、トルボルクもともに理知的で、陰影豊かな優れた歌唱を聴かせている。
前者は英国人の起用だ。初演のテノール、ウィリアム・ミラーとメゾ・ソプラノ、サラ・チャールズ・カーヒアも英国人であったことが、何か関係しているのかも知れない。

特別な意味を持って成されたであろう、マーラー没後半年を経た1911年11月の初演もまた、こうした雰囲気だったのではないだろうか。
総じてこういう雰囲気のマーラーを、「大地の歌」を聴かせようと試みる人々はもう居ないであろうから、私にはとても尊く感じられる。永遠に聴くことの叶わないマーラー自身の指揮解釈を想像しながら、この音源に耳傾けよう。
古い録音から演奏のディテールを見事に拾い上げた、オーパス蔵の復刻にも喝采を送りたい。

ちなみに、「大地の歌」初演者サラ・チャールズ・カーヒアの歌うマーラーは僅かではあるが録音がある。
ゼルマー・マイロヴィッツ指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団との協演による「私はこの世から忘れられ」(リュッケルトの詩による5つの歌曲より)と、交響曲第2番「復活」第4楽章「原光」抜粋の両面一枚がそれである。
既に60歳の歌い手は音程に不安定な所があるものの、幽冥の世界を思わせる歌唱は一聴して忘れ難い。「告別」などもさぞかし素晴らしかったことだろうと推察される。
Naxosの復刻CD、オスカー・フリート指揮「復活」(1924年アクースティック録音)の余白に収録されているので、ご参考までに。

 

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Sunday, March 08, 2009

「懺悔」「タブラ・ラサ」

もっと効率の良い記述方法に注ぐ努力の余地はあるが、順序を優先して書かせて頂きたい。

昨年夏に発売され、私を驚喜させたのがセルゲイ・パラジャーノフの監督作品「火の馬」DVDプレミアムエディション/デジタルリマスター版だった。

「ざくろの色」をはじめ、その後私をパラジャーノフの虜にした端緒がこの作品だったので、良質な形のサプライは本当に嬉しかった。そして、色々と特典映像を附随させた仕様となっている点も、この種の映画を嗜好する者としては有難いことだ。

複数の特典の中で、私が「はて」と首を傾げた映像がある。
それはテンギズ・アブラゼ監督の「懺悔」というグルジア映画のトレーラーで、英語字幕のみが附されている。
時間的には3-5分程だろうか?
過去と現在のソヴィエト地方都市と白日夢のようなイメージが錯綜する、強烈な印象を残すものだった。
しかし、より以上の情報が一切無い。近日DVDが出ると言うことなのか、それとも……?
ともあれ、機会があれば是非観たい映画として、脳裏の一隅に留め置かれた。

・・・・・・

先日、映画魔の妻が入会している京都シネマからの月報を、私が郵便受けから取り出した。
そうすると筆頭に「懺悔」上映情報が掲げられている。何という偶然!
「この映画はいつから上映が始まるの?」すがりつくようにして妻に訊いた。
私がシアターに足を運ぶことを億劫がるので、滅多に映画の話を持ち出さない妻だが、珍しく一声掛けようという心づもりでいてくれたらしい。
美味なるワイン、音楽、バレエ、ピロスマニの国、グルジア。
私が愛着を寄せるその国の映画ということで、空振りを承知で勧めるつもりだったそうだ。
夫婦の絆である。

岩波ホールを発信元として、全国で上映されるスケジュールらしい。
懺悔(1984)|ZAZIE FILMS

ああ、「懺悔」、遂に観ることが叶った。
滅多にシアターに足が向かない私の、その期待に違わない名作だった。

事後の感想として、ソヴィエト時代末期、体制とシンクロニシティを有しながらこの映画を観た人々は、さぞかし感動しただろうなあと思う。
皆が体験しながらも重く口を閉ざしてきた粛清の暗黒時代を、いざ、となってどのように振り返るのか、「懺悔」はそのアプローチの一つとして実に傑出した作品だった。
他方、この作品が時を得て世に出て、多くの観衆の絶大な支持を受けたのは僥倖(実際にその通りなのだ)で、同じように秀逸な企画が恐らく無数に葬られていったであろうことは想像に難くない。

何にせよ「雪どけ」期のソヴィエト社会は、追い掛けてみると面白い。
中世都市とまっすぐ一本に繋がったような生活風景と、最悪の統制社会に喘ぐ灰色の時代と、西欧の最新ヒットチャートから一年遅れくらいのポップカルチャーとが混在している世界。
配給元のサイトで配信されている予告編よりよりは、「火の馬」DVD付属のトレーラーの方が遙かに的確に、キャッチーに作品の美しさを凝縮しているのがもどかしいが……、とにかく多くの方にご覧頂きたい作品だ。

・・・・・・

そこで、アルヴォ・ペルトの「タブラ・ラサ」に話は繋がるのである。

この映画の中盤、とりわけ重く哀しいシーンに、静謐で美しい音楽が寄り添う。
「これはペルトの『タブラ・ラサ』じゃないか」と思いながら観ていたら、沈鐘のようなプリペアド・ピアノの音が入ったので間違いないと確信した。
1984年のソヴィエト映画で、「既に」ペルトの「タブラ・ラサ」が用いられている。驚愕した。
これは一体何処から持ってきた音源なのだろう。
まさかECMの音盤だというのか?
帰宅して音盤を手に取る。
"1984 ECM Records"とクレジットがある。そうだよな、発売時期と前後するよな、と思いながら収録年月日を確認して今一度驚愕した。「タブラ・ラサ」は1977年、ボン/ケルン西ドイツ放送によるライヴ・レコーディングとある。
そうか、1984年の「懺悔」制作時、既にECM盤収録の「タブラ・ラサ」は数年の時を経た音楽だったのだ。
ちなみに、同時期においてアルヴォ・ペルトは日本において未だ知る人ぞ知る音楽家である。
……だとすれば、「タブラ・ラサ」は一体、当初はどういう形態で、どの経済圏に供給されたのか?
思えば、アルフレード・シュニトケがプリペアード・ピアノを弾いているのも妙だ。
この人も自作自演が幾つかあるが、積極的にパフォーマンスを行う作曲家というイメージはない。
それが、他作の演奏に参加するとはどういうことだろう?
ペルトの人徳なのか、それとも、1977年のボンでのライヴは、それだけ歴史的な機会だったのか?
これは、今後の探求課題としよう。

・・・・・・

タブラ・ラサ──この音楽を如何に語ろう?

光 闇
陽光 陰影
水脈 流水 水滴
乳白 青白 純白 空白

至純

静謐

普段から「銀璧亭」にご来訪頂いている方には、私がお勧めするまでもないことは百も承知のこと。
あなた方には、改めて深謝と親愛の念を。

そして、何かの偶然でこの長文を読んで下さった貴方に、私は語りかけたい。
私は、私個人の使命で10枚のCDを世に遺す使命を附されたのならば、この一枚は必ず手に取るだろう。
どうか、少しでも多くの方にペルトを知って欲しい。
どんなジャンルの音楽を聴く人でも構わない。
時代が病んでいる今、このCDに収録されている音響は、静かに貴方に寄り添うだろう。あるいは、やわらかに包み込むことだろう。

とりとめもないようでいながら、日常は連鎖している。

セルゲイ・パラジャーノフ。
テンゲズ・アブラゼ。
アルヴォ・ペルト。

・・・・・・そして・・・・・・?
 

 
 

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Friday, February 13, 2009

よみがえる自作朗読の世界II


 

1. 北原 白秋 「詩朗読」 (水上・月夜の風)
2. 野口 米次郎 「詩朗読」(詩の金堂)
3. 北原 白秋 「短歌朗読」 (春・夏・秋・冬)
4. 佐佐木 信綱 「短歌朗読」(南京にて 他)
5. 前田 夕暮 「短歌朗読」 (箱根に遊ぶ 他)
6. 尾上 柴舟 「短歌朗読」 (夕暮の空に富士あり 他)
7. 太田 水穂 「短歌朗読」 (みんなみの海のはてより 他)
8. 窪田 空穂 「短歌朗読」 (上総大原の海辺にて 他)
9. 土岐 善麿 「短歌朗読」 (近詠)
10. 高浜 虚子 俳句の話(一) (「俳句とは何か」~「花鳥諷詠」)
11. 高浜 虚子 俳句の話(二) (「深は新なり 古壷新酒」~「特異な詩」)
12. 西條 八十 <西條 八十 歌謡詩集(第1集)(第2集)>より
(「はじめ詩」~「汽車の窓にて」~「おわりの詩」)
(西條 八十(朗読)/古関 裕而(ハモンド・オルガン)
13. 坪内 逍遙 「沙翁劇朗読」 (ベニスの商人)

ぼんやりしているうちに、こんなCDが去年出ていたことを知る。
妻への稟議も省いて、大慌てて購入。
いやあ、こういう企画は本当に素晴らしい。
野口米次郎の詩朗読も良かったし、高浜虚子の俳句講話も感動的だった。

畏怖すべき芸達者の坪内逍遥は、今回発売分の収録時間は短め(2分弱)でちょっと欲求不満。
この際、全録音を聴きたいぞ!(まだあります)
しかし、役者だなあ。こういう大先生の講義を聴けた人々は幸せだったろうなあ。

そして、古関裕而のハモンド・オルガン伴奏付き、西條八十の詩朗読!
これは必聴の稀少音源ですぞ!
不滅の名曲、「王将」ですよ、「青い山脈」ですよ?!
(本当に好きな歌です!!)

ところが、あやかしの詩「トミノの地獄」や、山本タカト装丁の「女妖記」等々、多彩な姿を見せて頂いたお陰で、最近個人的にどんどん深みへと引き込まれてしまった八十センセ…。
ここでは何と「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」の古関裕而センセの、ノスタルジックかつ威風堂々としたハモンド・オルガンを伴奏に、名状しがたき独特の世界を見せて下さいました。

このシリーズ、まだまだ続かないかなあ。
あ、最初の500枚プレス限定だったCDには入っていた佐藤春夫は今回も収録無しですね。
あの飾らない訥々とした語り口は何とも言えない味わいがあるのですが。

それと、今年は太宰治生誕百年なので、ラジオ音源とか出てきたら嬉しいなあと思います。

ちなみに既発音源については過去エントリ坪内逍遙の熱演に脱帽に記しております。
もしよろしければご参照下さい。
 

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Saturday, January 03, 2009

謹賀新年 平成二十一年

みなさん、あけましておめでとうございます。
本年も「銀璧亭」をよろしくお願い致します。

どうにか三箇日のうちにページだけでも送ることが出来ました。
やれやれ…。
 

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Wednesday, December 31, 2008

大晦日

気が付けば大晦日です。
今年から思い切って再び通電させてみた「銀璧亭」ですが、昔ほど気楽に文章を書けない自分があります。
エントリー数はどうにか月1件相当に達しましたが、以前を思えば緩慢ですね。

でも、稼働させれば相応に喜びが伴ってくるということも実感しました。
SNSに引き籠もっていては受けられない爽風が、確かにここには入ってきます。

ひとまずは本年一年の御礼と締めくくりとして、あまり意義はありませんがこのエントリーをあげさせて頂きます。早速あすはあすで「謹賀新年」と記すことになるかと思いますが、ひとまず、です(笑)

皆様、本年も一年ありがとうございました。
どうか、よい新年をお迎えください。

加牟波理入道 郭公
 

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Tuesday, December 02, 2008

ロシア・ピアニズムに寄せて

ある時期からロシアのピアニスト達に対する感想を挙げるのは避けてきた。

ピアノに触れない人間がピアノを語るのは、何だかコンプレックスを抱えたまま取り組むみたいで、いやだな、と思い始めたのがきっかけだった。

ニコライ・ペトロフの誤った訃報を軽率にも載せたのは未だに心の刺棘になっている。
(これは釈明があって、某外資系CD店のポップに『先年亡くなったペトロフ』と確かにあったのだ。声楽家のイヴァン・ペトロフ,1920–2003 -と勘違いしたものらしい)

ベルマンで揉めたのも嫌だったな。
怒るのは本当に体に悪い。やめよう。

フェインベルグで、とある不義理をしたのをずっと引きずっていた。先日縁あって某SNSにて、その方と再び繋がりを持てた。本当に嬉しいことで、心の淀みがスッと澄んだ。
やっと最近、フェインベルグと再対面しているところだ。

ソフロニツキーのスクリャービンが、ある趣向の人々からは全く評価の対象となっていない現状には辟易する。
畢竟、スクリャービンは「自らもピアノを弾く人」に対して特別大きな存在意義を有する、マニアックな作曲家ということなのかなあ…。

スタニスラフ・ネイガウスの音源を集中的に聴いたのは、身心に重く堪えた。
ソフロニツキーどころではない、この真っ黒な闇を抱いたピアニストを、私は未だ語る術を持たない。

そうこう鬱々しているうちに、状況も随分変わってしまった。

ボシュニアコーヴィチが亡くなった。
アクセリロードが亡くなった。
カステリスキーも亡くなった。
シュタルクマンも亡くなった。
そして、スルタノフも亡くなった。


1919年生まれのメルジャーノフは、今やロシア・ピアニズムの活仏(違う宗教に擬えて申し訳ない)だ。
1923年生まれのルドルフ・ケレルも健在のように見受けられる。
1931年生まれのバシキーロフ、1936年生まれのイーゴリ・ジューコフとヴィクトル・ブーニン、1938年生まれのイグナツェワ、1942年生まれのナセトキンは、頼もしくも古き佳きロシアン・スクールの法灯を静かに受け継いでいる。

そして、リュビモフ、コロリオフ、ソコロフ、フェルツマンらが、次なるロシア・ピアニズムの重鎮の座に相応しかるべき活動を続けている。

そろそろ何か書きたいという気持ちになってきたところだ。
静かにお見守り頂ければ幸甚です。
 

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Friday, November 21, 2008

ペリーコのアンソロジー

久々に晩酌で痛飲というくらい呑んでいる。
そうなると本当に久々、無性にフラメンコが聴きたくなった。

フラメンコは危うい芸能で、一旦取り込むと体の芯までジワジワと浸食してくる。
私は変わったフラメンコで、歌いも弾きもしないし踊りもしない。
ただ聴くだけのフラメンコ。こういう人は本邦はおろか世界中にも少ないみたいだ。

先般、SNSで御知遇を賜っている「憧れの女性」にフラメンコを紹介する時宜を得た。
まず何より先に、浜田滋郎氏の「フラメンコの歴史」(晶文社)…。
何だってエ、重版切れだとオ!

そして、音源。
イイモノが軒並み絶版になっている。
アルチーボ・デル・カンテ・フラメンコ…、廃盤。
アントロヒア・デル・カンテ・フラメンコ・イ・カンテ・ヒターノ(マイレーナのアンソロジー)…、廃盤。
カンタ・ヘレスもダメ!!
かろうじて、ペリーコのアンソロジーだけが、今も現役だ。
とりあえず1曲目、ハリート入魂の歌唱、ウエルバのファンダンゴから痺れて貰えれば嬉しい。

考えてみれば7-8年前、私がフラメンコに出会った時分、市場はまだ潤沢だったのかな?
あれからまた、フラメンコは変わってしまったのだろうか?

だけどアウレリオ・セジェスの歌声は不滅だし、ディエゴ・デル・ガストールのトーケは永遠だ。
そうでしょう?
そうでなくっちゃ、やりきれないよ。
 
アクースティカに「グラン・クロニカ・デル・カンテ」の最新盤と併せて、買い控えていた何枚かを発注した。
グラン・クロニカは1ヶ月ちょっと遅れたつもりだったが、何と在庫切れ!
次回入荷は未定!?
やりきれなくって、どう返事したらいいかわかんないよ。

しばらくつれなくしていた所為で、フラメンコの方からもそっぽを向かれてしまったらしい。
あ~ア!!

─Ay!!─
 
 

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Monday, November 03, 2008

エレーヌ・グリモーのバッハ

孤高にして峻厳なる現代のピアニスト、エレーヌ・グリモーが物凄いCDを出した。
これは新譜だが、既にして歴史を画する名盤の資質を有している。
今年はじめ、一旦発売中止となっただけに、漸くの流通が叶った喜びもひとしおだ。

平均律クラヴィーア曲集からの抜粋を鏤めながら、ブゾーニ編曲の「シャコンヌ」、リスト編曲のBWV.543の「前奏曲とフーガ」、ラフマニノフ編曲のBWV.1006のプレリュード(無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番)、そしてBWV.1052の「ピアノ協奏曲第1番」を収めている。

一枚で70分を超えるCDなのだが、通しで全て聴き終えて、驚くほど重い疲労感が残った。
これは本来、2枚に分割するべきボリュームだと思う。
それほどまでに各楽曲に対するグリモーの集中力は凄まじく、一瞬たりとも弛緩を見せることはない。

ブゾーニ編曲の「シャコンヌ」は、私に限らず、少なからぬ方にとって悪疫のような一曲だと信じる。
ピアニスティックな、ヴィルトゥオーゾ的なアプローチもあれば、原曲へひたむきに回帰しようとするアプローチもあるだろう。とかく多様な側面を併せ持つ魔性のピアノ曲が、この「シャコンヌ」なのだ。
演奏史的に視ると、ブゾーニ自身がピアノロールに刻みつけた畏怖すべき名演の、その血脈をあかあかと受け継いでいるのが、ここに聴かれるグリモーの演奏なのだと私には思われてならない。
静謐でありながら劇的であり、荘厳でありながら流水のように柔軟な、そういう演奏だ。

アルバムの結びには、私が大の苦手とするBWV.1006のプレリュードが入っているのだが、かくも纏綿、かつ爽涼感に溢れる音楽としてはついぞ聴いたことがない。CD1枚を通じた演目上の配置も、絶妙に設計されているのだ。

後は私があたら言葉を連ねても空しいだけだ。
とにかく、ご関心の向きは実際に聴き通して頂くほかにない。
発売と同時に手にしてからというもの、私は憑かれたように繰り返し聴いている。
 


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Wednesday, October 22, 2008

鍋島元子

鍋島元子(1999年没)は日本のクラヴサン/チェンバロ/ハープシコード奏者。
この楽器における日本人奏者の先駆であり、源流と言える人だ。

没後なお、本当は私如きが呼び捨て書きするのは憚られるような御方なのだ。
しかし、敢えて固有名詞として対峙することもまた、尊ぶことであろうと割り切ってこの場でご紹介したい。

鍋島元子はグスタフ・レオンハルトに師事し、ブリュッヘン、クイケン兄弟のもとで研鑽を積み、欧米各地で一級のクラヴサン奏者として重きを成した。
一方、日本でも母校の桐朋学園を中心に後進の育成に注力した。

こんなに素晴らしい音楽家のCDが、普通のルートでは流通していない。
心ある人々が静かに、大切に護り伝えて世に送り出しているのが今現在の状況だ。
レオンハルトも、あるいはスコット・ロスも愛聴するようになってなお、私にとって鍋島元子は不変の輝きを放つ特別なクラヴサン奏者だ。
手に入れる便宜を得たならば、複数点のずっしりとした音源が聴かれるようになるが、まずは入口として1枚、「チェンバロ・バロック名曲選」と題されたものをお聴き頂きたい。
ラモー、フランソワ・クープラン、そしてバッハの作品がちりばめられている。どこかで聴いたことのある親しみ深い小品がまんべんなく収録されているから、すぐに聴き馴染むことだろう。

それにしても何という素晴らしい奏者だろうか。
鍋島元子は、佐賀鍋島家の流れを汲む(複数家ある中の何処とまでは確かめていないが間違いない)、深窓の女性として生まれ育った人だ。
それが公然のプロフィールとして目に付きにくいということは、ご自身が生前敢えて表に出すまでもないこととお考えだったのかも知れない。
しかし、自ずと具わった気位の高さは隠しようもない。
この人の演奏を聴いていると、どうしても、古伊万里の色絵の、極上の逸品に眺め入った折、東洋の中に西洋が見え、またその逆が見えるような交錯、不思議な感興に等しいものを抱く。

「ナベシマ」と言えばまず極上の磁器を思い出す向きもあろう。
鍋島元子もあるところから遡れば、そこに還り着く芸術家なのだと思う。
だから、こと私の趣味志向から申せば唯一無二なのだ。

鍋島元子のCDは、自身の創設になる"古楽研究会-Origo et Practica"(通称・オリゴ)のサイトを通じて入手することが出来る。ディスコグラフィは、こちら。


あとは私の個人的な話。
この人のCDを入手して以来、いつかは「銀璧亭」で紹介したいと思っていたが、その日の気紛れのような感じではとても対峙出来ないと観念していた。
今が本当にちょうどいいタイミングで、楽しく意義深かった私の佐賀旅行から、また普段の音楽日記へ軌道修正するためには、この人CDを措いて他に好適の音源は無い。

佐賀よ、どうだろうか。
別に「個性と英知で磨き上げる田園都市『佐賀市』」という構想も悪いとは言わないがね。
違った方向から汲み戻すべきものがあるのではないかしら?
今やうら寂しい、かつてのメインストリートを思い切って「鍋島通り」とでも名付けてみたらどうだろう?
三十五万石の彦根藩/彦根市(因みに佐賀鍋島藩は三十六万石で非常に近い)が、その方向性で見事に観光都市へと転換出来たことにも目を向けて欲しいものだ。
 

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Saturday, October 18, 2008

伊之助めん

「この めん、わかんねえなあ~」

炊事場で腕組みして考え込みました。
まだ、私は佐賀旅行を引っ張ってまして、今回もその話です。

いよいよ佐賀を離れる時のこと、JR佐賀駅にある佐賀県物産売り場で、何か買おうとしていたのです。
職場や友達へのお土産品は村岡総本舗の安くてうまそうな新製品、「とら焼き 宗歓」(1ヶ126円)を手配したし大丈夫。せっかくだから、私達夫婦のお土産になるものも、と考えました。
本当は私が焼物にハマっているので、まんべんなくイイモノが並べてある、有田焼、伊万里焼、唐津焼、等々から何か買いたいんですよ。だけど妻がこの悪癖にウンザリしているので、これは不可…(苦笑)
じゃあ徹底的に安くて、ちゃんと食べるものにしよう、と思考をシフトして店を隅々まで眺めていたら、何となく目に留まったのが今回ご紹介する「伊之助めん」なのです。
見た目は何の変哲もない、スーパーで普通に売っている「乾うどん」です。
「あ~、佐賀も特産でうどんがあるのね。うどんならちゃんと食うし、嫁さんも好きだから、これでいいか。」
と、無我でこれを買いました。

さて、きょう今夜。
夕食の内容が思い浮かばないので、ちょうどいいから気軽なうどんにしようかと思った訳です。
そこで、この「伊之助めん」を取り出しました。
念のために調理方法を確認した時の心境が、冒頭の一言なのです。

<調理方法>
・ゆでたてを食べること。
・麺をゆでる前に、つゆ、薬味など「材料の全てをととのえて」、なおかつ「召し上がる直前に麺をゆでてください」とのこと。
・2リットル(約1升1合)の水を充分沸騰させるべし。
・そのままで湯がふきこぼれない状態を維持しながら、15~16分麺をゆでる。
・ゆで終わったら火を止めて、5~6分むらす
・「少量取り出し冷水につけ」て、「御試食 いたゞきお好みの固さで手早くざるにあげ」る。

・・・・・・
めんどくせえ!!

でも、全てを指示通りにやりました。
そして、食べました。
あ~、おいしかった^^

伊之助めんは、佐賀県神埼市(かんざきし/吉野ヶ里遺跡で有名)にて360年続く製麺の老舗とのこと。

昔々のある日、そこに小豆島からの旅の坊様が訪れたそうな。
ところが急病にかかり、路傍で苦しんでおったそうな。
気の毒に、と思った地元の伊之助さんが、誠心誠意、介抱したところ、坊様は程なく回復したそうな。
坊様はそのお礼として、小豆島特産の「そうめん」の作り方を伊之助さんに教えたのだそうな。

伊之助さんは、これぞ天が与えた家業、と心に決めて日夜精進し、出来上がったのが現在まで伝わる「伊之助めん」なのだそうです。

うおお、気楽に食ってた「うどん」にも茶道華道剣道みたいな「うどん道」があったんやなあ、と納得。
お心に留まるようでしたら、Web通販可とのことですのでお試しになってみてはいかがでしょうか。

いやはや、佐賀は今の今でも「葉隠」の郷でございますね(笑)
 
そう言えば大阪梅田に「はがくれ」という、うどんの名店があったなあ。
 
※ちゃんとクラシック音楽の話も、書く予定を立てております!
「銀璧亭」とはCDの様態をもじってつけた名前、音楽抜きでは成り立ちませんので…。
 

 

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Tuesday, October 14, 2008

佐賀に行ってきました!

母親の郷里、佐賀県佐賀市に久し振りに行ってきました!
今でこそ「ドイナカ」のイメージで玩弄され、当事者も開き直っている佐賀県。
しかし鍋島三十六万石由来のこの県は、ハイセンスな文化も沢山あるんです。
ところが「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の「葉隠武士」の無愛想さと律儀さ、それぞれの極致である気質が、色々な「イイモノ」を残念ながら単なる「器用貧乏」にしてしまい、全国的には「単なるイナカ」扱いになってしまいました(^^;

佐賀のイイモノ色々は伝統文化やグルメ、ショッピング等々沢山あるんですが、今回はその一つをご紹介。

実は今回、佐賀市の中心街を歩いて、ゴーストタウン化の凄まじさに愕然としました。
個人商店が郊外型ショッピングセンターに吸い上げられてしまったんですね。
私が目当てにしていたお店も潰れていないかとドキドキしていましたが、大丈夫、元気でした(笑)

そのお店が「コオダ貿易」(店名:オリエンタル・アート・コオダ)なんです。
ここは、輸入貿易会社・インド雑貨店です。
アジアン雑貨」というジャンル確立前の1973年から、インドの素敵雑貨を素晴らしいセンスで販売してこられた、由緒正しいお店なのです。
今でこそ珍しくないしつらえに見えるお店ですが、私が子どもの頃(25年程前)から全く様子が変わっていません。実のところ、時代が近年このお店に追い付いただけだと私は考えています。
こぢんまりと厳選しながら、入荷商品の品定めのセンスは、さすが長年のノウハウをお持ちでとても奥が深い。
私自身、大人になった今でこそ近畿三都の同種店へのアクセスが自由自在ですが、何も買うものが見付からずに退店することもしばしば。日常的に貿都・神戸をも射程範囲にしながらも、です。
しかし、佐賀の、この「コオダ貿易」では必ず「あ、珍しい、買っちゃおう」って、なっちゃう品物が必ずあるんですよ。

その「コオダ貿易」が最近遂にWeb出店されたことを、今回旅行で教えて貰いました。
これで、私のスペースでも大々的に宣伝出来ます。
私にとって「コオダ貿易」を応援することは、間接的に佐賀を応援することと同じです(笑)
まだまだ店頭のエッセンスだけがWeb販売の対象になっているだけのご様子ですが、拡充に期待してます。

そんな訳で、見づらいところにありますが私の"SHOP"リンクに「コオダ貿易」を追加しました。
ご関心の向きは是非、定期的にチェックなさってみてください。

以上、個人的な思い入れにお付き合い頂いてありがとうございますm(_ _)m 

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Wednesday, October 01, 2008

判明、炎の(偽)自作自演「ガヤネー」

2005年9月29日のエントリーなので、かれこれ3年間持ち越してきたということになる。
サモスード/作曲者自演のハチャトゥリアン作品集


今になって、ほぼナゾが解明しつつあるので追記したい。
ことの発端は"Parseghian Records PR11-163"という、自作自演+ロジェストヴェンスキー指揮の「ガヤネー」(ガイーヌ)と、サモスード指揮という「仮面舞踏会」を入手したことだった。
ちょうどその前にロシア系の別件音源で手痛い騙しに遭い、多くの方にご迷惑をお掛けしたばかりだっだので、こうした音源の素性には非常に懐疑的になっていた時期だ。

まずサモスード指揮のものは、音質から考えてウソだろう、と思った。
後程、Dante盤を入手したら音質も演奏も先述盤とは全く違う。
よってサモスード/仮面舞踏会は贋物確定である。ただ、贋物自体の素性は未だ確かめていない。

問題は「ガヤネー」の方だった。とにかく熱が入った超名演なのだ。
しかし、作曲家自身がこういう血管を浮き立たせたような指揮ぶりを聴かせよう筈は無い。
内外各地での様々な録音を聴いていれば、それは明白だ。
そうなると、これは一体誰の指揮なのだろうか…?
恐らく全曲盤に近い体裁でなければ揃わない曲目だ。この段階で指揮者は限られてくる。
まず入手が容易なチェクナヴォリアン盤を聴いたが、残念ながらこれは外れ。
他に思い当たるのは、カヒッゼ&ソヴィエト放送響か…?
しかし、オリジナルのメロディア盤は長く廃盤で、高値で購う手を講ずるのも厭わしい。

そうこうしていると、先日ひょんなことから、スルリと手に入ったではないか。
さっそく「序曲」から聴く。
うーむ、これは既聴感があるぞ、金鉱脈の先触れかも知れん。
そうこうしているうちに、「レズギンカ」である。
「これだッッッ!!!」
凄まじいパーカッションの前奏に思わず膝を打つ!
他曲も逐一確認したが、「ロジェストヴェンスキー指揮」と銘打ったものまで、全てこのカヒッゼ盤から引いていることが判明した。しかし贋物は何故、指揮者を分けるという面倒な真似をしたのか…?

そういう訳で「ガヤネー」、押しも押されぬ最高の名盤はヤンスク・カヒーゼ盤ということに確定。
グルジアでの珍音源ばかり先に馴染んだ身としては、ソヴィエトのオケを相手にこれだけ頑張っていた人だと言うことに驚愕だ。
これは恐れ入りました。
 

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Tuesday, September 23, 2008

チャールズ・ローゼン

ピアニストのチャールズ・ローゼン(Charles Rosen/1927-)は、今や数少ないフランツ・リストの孫弟子。
偉大なるモーリッツ・ローゼンタールに師事しているから、ホルヘ・ボレットと同門だ。
ただ、ローゼンタールはあれこれ細かい指図をする人では無かったようなので、「薫陶を受けた」程度に受け止めておくのが穏当だろうか。
学識も深いローゼンはレパートリーの広いピアニストで、かつ表現手法は非常に穏健だ。たとえばチェルカスキーやアール・ワイルドのような、19世紀的ヴィルトゥオーゾの遺風を期待すると肩透かしかも知れない。
近年(2001年),イタリアFONEにSACDでモーツァルトのソナタ集を入れていたが(廃盤?)、これは無味乾燥に近い仕上がりでパッとしなかった。

彼の素晴らしさを実感出来るのは、CBS-SONYのESSENTIAL CLASSICSからCDとなっている、ベートーヴェンやバッハだろう。
ベートーヴェンの後期ソナタも非常に生真面目ながら期待以上の仕上がりだし、バッハのフーガの技法(テューレックの小品と2枚1組)も穏健ながら味わい深く、食傷させられることがない。
そして、「ゴルトベルク変奏曲」が佳演である。
グールドあたりで聴き慣れていると、この演奏の価値は相対的に上がってくる性質のものだ。
前者が一級のブランド品だとすれば、ローゼン盤は普段聴きに凄く向いている。
優しく滑らかなタッチと、潑溂としたメリハリ、聴き手を厭きさせないように仕掛けつつ、一切が押しつけがましくないのだ。何度聴いても新鮮だし、かといって辟易させられるような部分もないのだ。
「いつでも聴ける」こういう1枚を手元に置いておくのは、決して無駄ではないと思う。
その「滋味」が「地味」にも通ずる趣が故に、私がこの盤の真価を覚るには、少し時間がかかったが…。
なんとはなしにAmazonでも☆5つのレビューが2つ付いているのが、この盤の雰囲気を表しているのかもしれない。

つくづく思うことだが、バッハは色々聴いておいて無駄はない。「絶対」がない作曲家だ。
そこに尽きせぬ安堵を感じさせてくれる。

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Friday, September 12, 2008

亡命者達の調べ

日本語では(世界的にも?)、まず最高のコンテンツを誇るショスタコーヴィチサイト、工藤庸介様の"Dmitri Dmitriyevich Shostakovich"の中で、☆5つの評価を附され絶賛されている、同一団体演奏の音源が2点ある。
ショスタコーヴィチ作曲、弦楽八重奏のための前奏曲とスケルツォop.11と、弦楽四重奏曲第8番op.110の室内合奏版である。編曲と指揮はいずれもラザール・ゴスマン(or ラーザリ・ゴズマン/Lazar Gosman/Gozman/1926-?)、演奏団体は"The Soviet Emigre Orchestra"(ソヴィエト亡命者管弦楽団)によるもの。

両者は上述ショスタコーヴィチ作品2曲に加えて、チャイコフスキーの弦楽セレナードを加えてCD1枚、亡き英Olympiaから発売していた。
私はこのヴァージョンは未入手だが、同一音源は何故か日本プレスの"MUSIC MASTERS"レーベルからも発売されており、こちらで聴くことが叶った。中古市場での入手も、後者の方がまだ容易なようである。
それにしてもどうだろうか…、この切々と歌い上げるような響きは。
ソヴィエト時代のゴスマンの指揮はバロック~古典派の作品で聴き親しんでいたが、これほど心に染み入る響きは決して得られなかったように感じる。むしろ同世代同一圏内同分野の人々、バルシャイ、ソンデツキス、マルキスあたりと勝手に一括り「四天王」のように見なしていたのであるが…。

そして更にもう一枚、ゴスマン渡米後の音源がCBSから出ている。
"Tchaikovsky Chamber Orchester/Lazar Gosman"と題されたCDだ。
私は米Amazonで、それこそスターバックスコーヒー1杯くらいの値段で中古品を手に入れることが出来た。
これが、また、想像を絶する美しい響きなのである。
本当に切々と心の襞に切りつけてくるような音楽が満ち溢れている。豊麗とか玲瓏とか、美辞麗句で済む綺麗事ではない。
ライナーには上述「亡命者管弦楽団」が改称して、"Tchaikovsky Chamber Orchester"となった旨が記されている。なるほど、どう聴いてもこれは同一団体でなければ有り得まい。
冒頭のラフマニノフ「ヴォカリーズ」からして、響きが異常だ。作曲家自身がフィラデルフィア管を指揮した古い秀演もあるが、ここに込められた想念はもっと露骨で切実である。ラフマニノフがモイセーヴィチに語ったという"return"(帰郷)の想いが、ここではそのまま音になっている。
あとは掻い摘んでのご紹介になるが、ボロディンの「イーゴリ公」からの編曲の美しさも群を抜いている。やはりこれは囚われの心、亡命者の心の歌だ。そしてバーバーの「アダージョ」も、透明で切々とした響きが他を圧する。
他方でショスタコーヴィチの「24の前奏曲」からの編曲(基本的に編曲ものは全てゴスマンの手になる)に聴かれる洒脱さも忘れ難いものだ。

ここでご関心の向きは、是非海外Amazon(特にUSA)で"B00000DSCT"をお調べ頂きたい。
今から手に入れても決して遅くはない、心の宝たりうる1枚である。

それにしてもこれらのエトランジェ達は、ゴスマン氏は、今は一体どう過ごしているのだろうか…?
 

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Monday, August 25, 2008

Brilliantのパーセル・ボックス

ヘンリー・パーセルの室内楽作品を集成したボックス・セット。
ハープシコードやオルガンのための独奏曲も含んでいる。
とても良い買い物となったので、ここで少々感想を連ねたい。

声楽曲以外のパーセルの作品はなかなか一纏めに聴く機会が無かったように感じていたが、このセットがようやくその渇望を癒してくれた。

宝の山を前に、ひとまず普段から馴染んだ作品から聴き始める。
ヴィオール合奏による「ファンタジア集」は何種類か所有しているが、ここに収録されている演奏もいい。
アーノンクール夫妻のamadeo盤のような、印象の鮮やかさでは一歩譲るが、ここに聴かれるしっとりとした風合いも、折々の気分を選ばず実に心地良い。
ちなみにこの作品集のうち「4声のファンタジア」は、クロノス・クァルテットが「アーリー・ミュージック」(廃盤)というアルバムで採り上げており、「史上初の弦楽四重奏曲」との見解の下に演奏している。
その是非は措くとしても、この曲集は正に天才の仕事である。
バッハの「フーガの技法」と双璧たりうる傑作であることを、私は信じて疑わない。

私がもう一つ嬉しかったのは、ハープシコード作品集だ。
このCDでは、リュッカースの流れを汲むフレミッシュ・チェンバロが演奏に使用されている。
専ら個人的な好みの話になってしまうが、私はこの系統のチェンバロが本当に大好きなのだ。
最も「弦を爪弾いた」趣を持っている楽器なのではないだろうか…?
リュートの柔らかさを根底に遺しながらも、まるで砂金を鏤めたような輝かしい音色の素晴らしいこと!
ジャーマンの「ジーン」と響く底光りとも、フレンチの華々しさとも違う。
熱愛してやまないパーセルの鍵盤楽曲をこうした形で聴くことが叶うとは、予想を上回る嬉しい収穫だった。

全体像としてはまだ聴きこみの最中だが、今もし「鞄にはいるだけの荷物で無人島へ行け」と言われたら、数少ないスペースにこのBOXを入れてしまいそうな心境でいる。

私が今更言うまでもないことだけれど、「安かろう悪かろう」に陥らないBrilliantは偉い企業だなあ。
フィッシャーのハイドン、バルシャイのショスタコーヴィチ、それぞれの交響曲全集が、どれほどこれらの作曲家の実像を我々に引き寄せてくれたことか…。

夭折の儚さによる先入観だろうか…、
どこか哀しみを帯びたこれらパーセルの美しい作品集が、手元で心から愛おしく思われる。
 

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Saturday, August 16, 2008

J.S.バッハ/無伴奏Vn/ホイトリング

J.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」。
私もまた、この不朽の芸術作品の虜として、数多の音源を聴いてきた。

─録音年代や音質にこだわらず、ただひたすら心の深奥を衝く演奏をお探しならば、
ヨハンナ・マルツィ Johanna Martzyの演奏をお聴きになるのがよいでしょう。

─モダン・ヴァイオリンによるひたすら美麗な音色を求めるならば、フェリックス・アーヨ Felix Ayoによる演奏がお薦めです(現在は『パルティータ』のみが現役盤)。

─バロック・ヴァイオリンによる清楚な「無伴奏」に耳洗われたいのなら、ECMのジョン・ホロウェイ John Holloway盤が透徹した音楽を体現していて、実に素晴らしい。

─巌を穿つように強固な、己が意志に徹する演奏の極致を、私はヴィクトル・ピカイゼンVictor Pikaizenの、CD3枚に跨る演奏に見出した心地がします。

・・・と、特に私の心を捉える演奏を絞り込んで挙げてみた。
本当は、真摯な演奏であれば何でも心打たれてしまうのが、この楽曲の凄さだと思う。
グリュミオーやミルシテイン、クレーメル、それにハイフェッツ、あるいは近年再び光を浴びたラウテンバッヒャー。
好きな演奏というだけで挙げてゆくと、キリが無くなってしまう。

先頃発注していた、ヴェルナー・ホイトリング(ウェルナー・ホイトリンク/Werner Heutling,1921-)による同曲集のCDが手元に届いた。

 ◎第1集(ソナタNr.1,2&パルティータNr.1)

 ◎第2集(パルティータNr.2,3&ソナタNr.3)

HMVの解説によれば、「ホイトリング弦楽四重奏団」の主宰ヴァイオリニスト、そしてハノーファーのオーケストラで長年コンサートマスターや教職を勤め上げてきた人物であるということだ。
録音は1999年から2000年に行われている。78歳という年齢をを前後した時期の演奏だ。

ソリストとしての花道よりは、むしろごく地道で手堅いキャリアを幾星霜と積み重ねてきた人なのだろうと感じた。それと思しき人が、もはやヴァイオリンのソリストとしては限界に近いとも言える高齢に達して、あえてバッハの至高作を録音しようという決断。
何かしら、放たれる意志の煌めきが刹那に見えた心地がして、是非とも聴いてみたいと思ったのだ。
─たとえ運弓が軋んでいようとも、重音が濁っていようとも、、、何かを掴むことはできるだろう。
そのくらいの心づもりで待っていた。

そして、届いたCDをプレイヤーに預けて、ホイトリングの「無伴奏」に聴き入った。
演奏が続く、音楽が進行する、時が流れる…。
私の心は、自分でも驚くぐらい素直な状態で彼の演奏に捉えられていた。
見事な演奏である。
ひたむきに丹精して音楽を辿るような演奏は、従来の数々の老匠と共通するものだ。しかし、ホイトリングはその上で、何かが違っている。そうした演奏が裏腹に併せ持つことの多い、人を辟易させるような余分な「力み」を感じさせないのだ。ギッ、ギッ、と弦を刻みつけるような息苦しさ、あるいは一歩一歩引き摺るようなフレージング。彼の「無伴奏」は、その何れにも当て嵌まらない。
加齢による衰微が無い、と言えば嘘になる。だが、ホイトリングの演奏を聴いていると、不思議と心持ちが晴れてくる。「ワビ・サビ」のような馴染み深い感覚に片付けてしまうのでは惜しい、私達に仄かな憧憬を抱かせるものがここにはある。
長い年月でしがらみを洗い流した軽やかさ、とでも言うべきか…。

また良い音楽と出会った僥倖を喜ぼう。
折々毎に大切に聴いてゆきたい音源である。
 

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Thursday, August 07, 2008

ショパン:ピアノ協奏曲(ピアノ六重奏版)

ショパン:
ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 op.11
〃   〃  第2番 ヘ短調 op.21
(ピアノ六重奏版)
ナウム・シュタルクマン(ピアノ)
グリンカ国立弦楽四重奏団
アレクセイ・シニョフ(db)
2004年録音
VISTA VERA VVCD-00158


先日届いたCD。
ショパンのコンチェルトをこうした編成で演奏することは、昔日よりしばしばあるようだ。
それでも、第1番,第2番揃ったCDはあまり多くないように思う。
一聴するやいなや、わが心の琴線に触れたので、ここでご紹介したい。

シュタルクマン(Naum Starkman/1927-2006)は、名教師コンスタンチン・イグムノフに師事した最後の世代に属するピアニスト。イグムノフは1948年に亡くなっているから、直弟子の訃報も近年相次いでいる。ボシュニアコーヴィチもシュタルクマンと同年、2006年に鬼籍の人となってしまった。同門で未だ健在の人となると、ガンバリヤンあたりしか思い浮かばない。

私にとって、ショパンの協奏曲はそう度々聴かれた楽曲ではない。
頻繁に難点を指摘される仰々しいオーケストレーションは、年端もいかぬ少女に粉黛を塗り重ねた姿を思わせる。
あまたの美質を連ねて成る楽曲であるはずなのに、どうしても居心地の悪さを感じてしまうのだ。

ピアノ六重奏版という編成で両曲を聴いたのは初めてだが、斯くあるべきという姿を初めて目の当たりにした心地がする。
一人一人の顔が見えるような弦楽アンサンブル、それがピアノソロと親密に融け合う姿が、聴者との隔たりをも大きく縮めるようだ。
そうだ、本当はこれくらいが、ちょうどいいのではないだろうか。
誰が望まずとも、楽曲が自ずとこの姿を望んでいるかのように感じた。

77歳のシュタルクマンのピアノは、力み処で幾分の脆さを感じさせはするが、大きな綻びもなく見事だ。一貫して繊細さを欠かさない、豊かな表現力の持ち主である。
弦楽アンサンブルも、この分野におけるロシアの伝統を汲んだ線の太い緊密さが、演奏全体をしっかりと固めている。

第5回ショパン国際ピアノコンクール5位入賞という経歴を持ちながら、あまり音源が聴かれることのなかったシュタルクマン。
この1枚は晩年に記録された貴重な遺産として尊びたい。
 

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Wednesday, April 16, 2008

ドゥルヤン、どうにかならないか?

大分昔のエントリーで取り上げた、アルメニアの指揮者オガン・ドゥリャン(Ohan Durian/Ogan Durjan/1922-)。

その後公式サイトが登場したりして、いよいよ芸風の全貌が明らかに…、と思いきや、そうもいかなかった。
本人サイドから、何だか得体の知れないハンドメイドのDVDが少数出回ったりもしたようだ。
ここでかなりの分量を鑑賞出来ます)
しかし、私にとってこういう代物は興ざめも良いところで、全く食指が動かない。何やらスゴイ演奏なのはわかるのだが、こんなへんてこりんな音源供給の手段には当惑してしまう。音質も悪いし、欲求不満の材料以外の何ものでもない。

それはそれとして、私の先述エントリーを立てる形でリンクを張って下さった方もいらっしゃるようです。丁重な御対応に感謝申し上げると共に、長らくの欠礼をお詫び申し上げます。

さて、それから随分歳月を経たことになるが、相変わらずドゥリャンの音源は手に入らない。
ショスタコーヴィチの交響曲第12番と、ムソルグスキーの「はげ山の一夜」が正規CDとして手に入る全てだ。
定期的に"Durjan""Durian""CD"等々絡めて検索しているのだけれど、何一つ出る気配がない。

ところが、そうこうしていると面白いサイトを発見した。
モスクワ交響楽団(ロシアオケは似たような名前のオケが乱立しているので、何処が何処だったのやら同定が難しいが…)の関連サイト(?)に、ドゥリャンが同楽団を指揮したライヴ映像がアップロードされているのだ!

THE MOSCOW SYMPHONY ORCHESTRA

演目は
(1)ベルリオーズの「幻想交響曲」より第5楽章抜粋
(2)ラヴェル「ボレロ」全曲
(3)モーツァルト「レクイエム」より"Cum Sanctis"

これはかなり見応えのあるライヴ映像だ。録音もステレオ収録で、まずまず良好である。
「ようやくマトモな代物が出てきた…」、そんな感慨と共に鑑賞した。

それにしても、この指揮者はやはり、とてつもない実力の持ち主なのではないか?
いずれも齢80に達してからの演奏だが、これはただ事ではない。
芯から重厚な音色と、充満する気迫。異様なまでにおどろおどろしくもある、音楽の運び方…。
一旦これに波長が合ってしまうと、もう虜になってしまいそうである。
3点中で特に「ボレロ」は全曲鑑賞が可能なだけに、印象も一際強い。強烈にドゥリャンの刻印が認められるにもかかわらず、基本は外していない。
そうそう、この人、デゾルミエールやマルティノンにも師事していたんだよなあ。音色は灰色がかっているが、よく聴いていると明晰さや洒脱さにも決して事欠いてはいない。何処か、師匠達の遺風がこめられているように感じられる。このあたり、ソヴィエト-ロシアの指揮者達の系譜とは一線を画しているようにも思われる。
そして怒涛のクライマックスは、正しくドゥリャンの個性そのものだ。


昨年には85歳記念コンサートを催したようで、まだまだやる気と思しきドゥリャンである。
どうにか、マトモな形態での音源頒布は叶わないものだろうか?
昨今、これほど面白い音楽を聴かせてくれる現役指揮者も、そう多くは見当たらない。口コミ次第、売り方次第ではもっと市場に浸透する可能性があると思うのだけれど。
特に、この重低音で鳴らすショスタコーヴィチが聴きたい!
 
まずは名が普及し、購買層の関心が向かなければならないだろう。
こういう強烈な個性と実力を持つ指揮者が、未だ現役であることを少しでも多くの方に知って頂きたい。
 

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Sunday, April 13, 2008

モラヴェッツ/ショパン/ノクターン


(19曲/※20番と21番は収録なし)
イヴァン・モラヴェッツ(ピアノ/1966年録音)
(Elektra Nonsuch 9 79233-2)

ノクターンの全曲盤は、なかなか意に適うものが無くて難儀する。私にとって、求不得苦の迷い道の一筋を成している音楽だ。十数種を聴いた末に、やっと残った数種の中に、このモラヴェッツのものがある。

このCDを聴き、モラヴェッツに対して長らく関心を向けずにいたことを私は悔やんだ。

モラヴェッツは、不思議な風合いを持つピアニストだ。
薫陶を受けたベネデッティ=ミケランジェリの影響だろうか、音色に対しては殊にこだわりを持っているようである。彼が録音した多数の音源がある中、そんな美意識が異様なまでに色濃いのが、このノクターン集だ。

人の好みは色々あるだろう。
このCDをあらゆる人に薦めたいかと問われると、そうでもない。
─いっそのこと、パッハマンやザウアー、ローゼンタールをステレオマイクの前に呼び還したい。
ショパンのノクターンという作品に対して、そこまで思い詰めた人を慰めるのが、モラヴェッツの演奏なのではないだろうか?
つるつるに磨かれた翡翠玉のような風合いの音色。
それを暗闇の中で、ランプにかざしてじっと眺め入るような心象に誘うのが、この演奏だ。
鈍く柔らかい透過光の中に、先に挙げたような古き日のピアニストたちの俤が、消えては浮かび、浮かんでは消え去る。
こういう演奏は、もはや求めても得られるものではなくなってしまった。
「遺作」と附されたあと2曲が弾かれていないのが、残念でならない。これが21曲版の全集録音であったならば、私はショパンのノクターンに対して心を決めても良かったのだ。


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最後に本ブログ再開の言として、そして先々の為にも一言添えおきたい。
私は楽器一切に心得がない人間だ。「ひらひらと蝶が舞うような」の類の繰り言を連ねる術より他に持たない。
演奏表現全般、感覚に適えばそれで事足りるのであって、高次の精度を絶対条件とするものではない。
拙見を笑止と見倣す向きは、全てを黙殺して頂くように望む。
 

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