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Thursday, August 26, 2004

クーセヴィツキー(その1)

家路の途次に車窓から空を望めば、漂っているのは秋の雲ではありませんか。

寒暖極端な季節にあって私は、いずれにせよ空調が欠かせないという人間です。にもかかわらず、どうせガマンするなら夏の方が良い、と思っています。
冬場はなんだかあらゆる意欲が萎縮するように感じられる、まるで相容れない季節です。

まだまだ暑いとお感じの方も多いかとは存じますが、私は少しでも秋の気配を察するともうそれだけで憂鬱に…はあ…。


今日は相次いでCDが届きました。
内訳は、

◆シベリウス:交響曲第2番/グリーグ:過ぎた春
セルゲイ・クーセヴィツキー指揮/ボストン交響楽団(BVCC-37340)

◆ムソルグスキー(ラヴェル編曲):組曲「展覧会の絵」/リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストゥラはかく語りき」/ラヴェル:「ボレロ」
セルゲイ・クーセヴィツキー指揮/ボストン交響楽団(BVCC-38247)

◆エルモア・ジェイムス:『スカイ・イズ・クライング』(P-VINE PCD-2889/90/91 3枚組)

という感じです。
エルモアは中古品です。P-VINEは在庫切れが多いですね。『スナッキーで踊ろう』、早く再発して下さいよ。ヤフーオークションでエラい値段になってますよ!

CDに入っている音楽自体の感銘度で語り出すと、エルモアの方になってしまいそう。でも、前の記事でブラインド・ウィリー・マクテルについて書いてますからね。ブルースはちょっと間を空けることにします。
ああ、エルモアは本当にいいなあ。でもこのCD、ちょっと低音域が散り気味じゃないかな?

話題一転、クーセヴィツキーに移ります。
セルゲイ・クーセヴィツキー(Serge Koussevitzky/1874-1951)は、ロシア生まれの指揮者/コントラバス奏者/作曲家です。最初はコントラバスのヴィルトゥオーゾとして活躍していましたが、後にニキシュの助言を得て、指揮者に転向しました。革命後も1920年まではロシアに止まっていましたが、その後フランスに亡命。その後アメリカに渡り、ボストン交響楽団の指揮者として死の直前まで辣腕を振るいました。
『クーセヴィツキー』という読み方は、実はフランス語での綴りに則ったもので、ロシア語では『クセヴィツキー』と発音するのだそうです。
クーセヴィツキーの奥さんはナタリア・ウスコフという大富豪で、その資産を元手に同時代作曲家の創作をバックアップする財団を設立。初期にはスクリャービンが年金を受け取っていますし、アメリカに亡命後、貧苦と病魔に苛まれていたバルトークに、『管弦楽のための協奏曲』を依頼したのは、周知のエピソード。また、ラヴェルによる『展覧会の絵』の管弦楽編曲も、クーセヴィツキーからの依頼で生まれたものです。
残された録音も決して少なくはないのですが、それにも関わらず国内では今ひとつ認知されていないように感じられます。大半がSP音源である、ということが主な理由として考えられますが、実際彼の芸風はダイナミックスを調整せざるを得なかった当時の録音技術には、些か不向きだったのではないかと思われるのです。
速めのイン・テンポを取ることが多いクーセヴィツキーの芸風は、低音域による卓越したメリハリ感に裏打ちされたもの、しかし、その部分を録音技術上の制約からスポイルしてしまうと、どうなってしまうのか、結果的に、甚だ素っ気ない解釈との印象だけが残されてしまいます。
国内でも戦前からボストン響の緊密なアンサンブルは評価されていたものの、当時の盤評を読むとやはり『冷たい』『リアリスティック』という形容が付きまといます。そこに前述の財団での活動と相まって、あくまで『近現代音楽のスペシャリスト』としてのみ評価されることに相成ったのではないでしょうか。
世に出る機会が多かった音源も、1920-30年代のSP音源が中心で、そう言ったバイアスを覆すだけの演奏記録はごく少ないように思います。

そんな中、本日掲げたシベリウスとグリーグのCD、こちらはクーセヴィツキーが辛うじて間に合ったLPプレゼンスのための数少ないセッション、1950年11月29日に収録された、事実上最後の正規録音です。
多くのSP音源では判らなかった各パートの詳細な色合い、強弱と空間成分との微妙な兼ね合いが、霧が晴れたかのようにくっきりと伝わってきます。
でも、残念なことにこのセッションでは、クーセヴィツキーの推進力が往年に比べて些か減退しているように感じられるのです。シベリウスの4楽章などでは、全体的に重々しい印象を免れ得ません。
その点からするとむしろ、グリーグの『過ぎた春』、5分半ほどの弦楽合奏作品ですが、こちらは本当に素晴らしい。
分厚い弦の響きは、実に繊細な情緒を伴ってコントロールされています。
聴いていると、これが最後の録音であるということが、不可分的に脳裏をよぎってしまう。ほの暗く清楚、しかし決してか細くはならない音楽。
晩節に到った人のみが現出し得る、懐古の譜の趣と言えるでしょう。

さて、次回はぶっちぎりのクーセヴィツキーを記録した名盤、聴き識る中から選りすぐりをご紹介したいと思います。

今日も長くなったなあ…この先続けていけるのかなあ…。
 
<次回に続く>
 
 

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