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Friday, August 27, 2004

クーセヴィツキー(その2)

さて、前回記事に引き続いて、クーセヴィツキーについて書きます。
本日のお題は『ぶっちぎりのクーセヴィツキー』だったかと。
一晩措くと随分と軽佻な印象で、我ながら辟易します。でも、初志貫徹です。

さて、まず入手が容易なものを一点。
IMGの"GREAT CONDUCTORS OF THE 20TH CENTURY"より、
"Serge Koussevitzky"(7243 5 75118 2 7)

です。
潤沢に供給されているシリーズである反面、大部にわたるシリーズなので店頭在庫で買おうとすると案外難しいかもしれませんね。Webを通じて入手した方が、必要即応性は高いかも知れません。

このシリーズは総て2枚仕立てで、しかも各Discが70分台という長時間収録、1タイトルに1つはレア音源が盛り込まれていて、リマスタリングも良好。人選の基準が若干英国人の嗜好(?)に偏向しているようにも感じられますが、タイトルに恥じない好企画と言えるのではないでしょうか。

『クーセヴィツキー編』では、以下の音源が収録されています。

◆Disc1
チャイコフスキー:
交響曲第5番/ボストン響(22/11/1944)

ラフマニノフ:
死の島/ボストン響(23/4/1945)

リスト:
交響詩『メフィスト・ワルツ』/ボストン響 (8/5/1936)

◆Disc2
シベリウス:
交響曲第7番/BBC響(1/5/1933/LIVE)

ハリス:
交響曲第3番/ボストン響(8/11/1939)

ベートーヴェン:
交響曲第5番『運命』/ロンドン・フィル(3-4/9/1934)


別のトラックに言及すると後続の記事に繋がらなくなってしまうので、本命に駆け込みます(^^;

当アルバムからはチャイコフスキーの交響曲第5番を、『ぶっちぎりのクーセヴィツキー』の姿を伝える超名演として推奨致します。
1944年の録音ですが、音質は明瞭で、今日の鑑賞においても差し支えない水準に達していると言えるでしょう。録音プロデューサーはチャールズ・オコンネルでしょうか? 当時の機材で、よくもこれだけ演奏に対応出来たものだと感服します。
それにしても、この雄渾な演奏を何に喩えればよいのでしょうか。引き締まった音色が醸し出すトーンは確かに寒色系。しかし、『冷徹』『リアリスティック』といった形容は、おおよそ似つかわしくありません。例えば第1楽章のアレグロへの展開部、これです、この迫力を1920-30年代の録音は捉え切れていないのです! 凝縮度の高い響きを卓越したリズム感で捌ききっているため、トゥッティでも決して響きが鈍くなりません。
その一方で緩徐楽章においては、むしろクーセヴィツキーの冷徹なセンスが貢献して、音楽がノーブルな趣を失うことは決してありません。それでいて情感は極めて豊かです。
そして4楽章、波濤が連なるような物凄い力感と推進力! 再現部からフィナーレへの推移は、圧倒的と形容するよりほかありません。わけても中低弦の疾風を思わせる熱演は、何度聴いても粟肌が立つ心地がします。
この交響曲で情感やヒロイックな側面を強調することは、解釈としてさほど困難を伴うとは思われません。その上で真摯に楽想と向き合えば、演奏も或る程度の完成度に達することでしょう。逆に言えばそこが弱点でもあり、『皮相的な作品』という評価に結びついているのだと思います。
そうした中にあってクーセヴィツキーによる演奏は、希有な審美眼とヴィルトゥオジティをもって楽想のポテンシャルを最大限に引き出した結果、極めて高次の価値に達し得たと言えるのではないでしょうか。
クーセヴィツキーを見出したニキシュにしてもそうですが、19世紀には、作曲家自身でさえ見出し得なかった価値を再創造してみせる演奏家が沢山居たように思われるのです。
そうした人々の手にかかれば、駄作というものは存在しないも同然だったのかもしれません。

メンゲルベルクの『悲愴』が未だ名盤としての地位を確保していることを思えば、演奏・録音ともに全く遜色のないこの演奏もまた、より人口に膾炙することを願ってやみません。

結果として、分量的な問題からこの演奏1つに終始することになってしまいました。
己の力量不足を痛感した次第です。

クーセヴィツキー、あと1回続きます(^^;
 
 

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