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Tuesday, September 21, 2004

DARK WAS THE NIGHT─COLD WAS THE GROUND

ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」(PARIS,TEXAS/1984)を観ました。何年ぶりになるでしょうか。
顧みないままに、思いがけず長い時間を過ごしていたようです。
「好きな映画だ」と、かつて人に語ったことがある作品なのだけれど、何故好きなのか、それは伝えていなかったような気がする。ただ、「いい映画だよ」とだけ言ったのかな?

先日、深夜放送で流れていたのを思いがけず途中から観て、その時は、途中で止めました。
たしかに見覚えのある場面がテレビに映し出されている。何が起きているのか、そしてこれから何が起こるのか、自分は知っている。場面と、交わされる言葉とをなぞることで、いつしか記憶を遡りつつある自分が在ります。
やがて、何も取り戻せないまま、物語が自ら語り始めたことを悟り、そこでテレビの電源を落としました。
少し時間を措いて、より具に記憶を探り始める。あんなにも心に残った映画のことが、思い出せません。試みに作品レビューを幾つか読んでもみましたが、自分が受けた感動に立ち戻る糸口は、探し出せないまま。

そして、目の前で何年も置き去りにしていたビデオテープを手許に引き寄せ、今一度作品と向き合う機会を設けました。此処に至って、漸く。
個別に記憶していた場面が、決して多くはない言葉の印象が、次第に有機的な結合を取り戻し始めます。彷徨、家族の絆、愛と齟齬 ─ 掬い上げたままに乾いてしまったエレメントが、また作品の中へと帰ってゆきます。
かつての感動を言葉に表すことが出来ず、遂には思い出すことさえ出来なくなったのは何故か。それが解った時には、より以前の自分に立ち戻って、物語と再会を果たしていました。
今なら、感動の仔細を言葉に換えることも不可能ではありません。でも、敢えてそれをしようという気にならないのは、実際の感触を差し措いて言葉を連ねても、それはまたすぐに乾いてしまうからです。

この作品には、再会した男女がハーフ・ミラーを隔てて言葉を交わす場面があります。一方には一方の姿が見えていて、もう一方からはそれが叶わない。あまりにも象徴的と言える状況設定ですが、初めて観た時には既に、どこか一片で自分と重なるものを感じていたように思います。
時間を積み重ねることで、接点は想像以上に大きくなっていました。その大きさを量りかねた焦り故に、先日の放送では、途中から正視出来なくなったのかも知れません。
 
作品全体の心音のように響く、ライ・クーダーによるスライド・ギターは、サントラ盤を通じて聴いていた時よりもずっと、心の深い処へと沁みました。
そして、映画が終わったら、改めて聴こうと思っていた音楽があります。この記事のタイトルでもある、
"DARK WAS THE NIGHT─COLD WAS THE GROUND"(夜は暗く、地は冷たく)
という曲が、それです。
作品の中でライ・クーダーが奏でている同曲は、もともとブラインド・ウィリー・ジョンスン(Blind Willie Johnson 1902/3-1947)というゴスペル・シンガーが1927年に吹き込んだレコードによるもの。オリジナルの姿には、ジョンスン自身が極めつきのような濁声で歌う、ハミングが附随しています。
歌詞もなく、ただ声とスライド・ギターとで紡がれるキリスト磔刑への挽歌、ジョンスンが遺した30面ほどの全録音の中でも、一際異彩を放つ感動的なテイクです。

映画を観て暫く経った後に、サントラ盤を見つけて、更に時間が過ぎて、ブラインド・ウィリー・ジョンスンの録音に逢着。全てが偶然と共にあった出逢いです。
自分にとっての容れ物を度々変えながら、「パリ、テキサス」はその中でいつも息づいている筈でした。
でも、いつしか容れ物の触感だけに安住するようになり、それに気付かないまま時間を過ごしていたようです。

思いがけず辿り始めた心の軌跡は、まだブラインド・ウィリー・ジョンスンの歌へは戻っていません。点と点は繋がらず、前もって望んでいた予定調和は拒絶されたまま。

作品と自分とが二重露光のようになった今、フレームの中には、重なる被写体と、重ならない被写体とが混在しています。
その奇妙な調和と混乱を見つめつつ、また新たに動き始めた秒針の音を拾おうとしているところです。
 
 
 

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