« 夕雲たなびけり | Main | 悟り、また迷い、の窓 »

Wednesday, October 13, 2004

ヴァーツラフ・ターリッヒのモーツァルト

クラシック音楽について書くのは、随分と久しぶりであるような気がします。
決してそんな筈はないのですが、心構えの問題でしょうね。
さて、心苦しくも「編集中」のまま放置していた記事を、漸く完成させることが出来ました。

今回はチェコが誇る大指揮者、ヴァーツラフ・ターリッヒ(ターリヒ/Václav Talich 1883-1961)について。

ターリッヒはわたくしにとって、殊の外愛着のある指揮者です。
遺された録音が、いわゆる「お国物もの」のスメタナやドヴォルザーク、ヤナーチェクといったレパートリーに偏重しているため、ややもすればローカルな指揮者としての認識に止まりがちなのは残念なことですが、同年代の巨匠達と比しても、些かの遜色も無い偉大な指揮者であると断言致します。
往時のチェコ・フィルを中心に残された録音群は、甘美ではなくとも大変芳醇なものです。どこか年代を経たシングル・モルトのウイスキーを思わせるところがあります。仄かに漂う野趣も、ピート香の味わい深さに擬えることが出来るでしょう。
ただ、ターリッヒの演奏の本質は、綿密なトレーニングに根ざした、堅固なものであることを附記しておく必要があると思います。チェコ・フィルの100周年(1996年)を記念したドキュメンタリーでも語られていますが、そのリハーサルの厳しさは極めつきだったようです。
他方で、カレル・アンチェルが語るエピソード、以下、そのまま抜粋です。


ターリヒは亡くなる数年前に再びチェコ・フィルを指揮しました。
リハーサルで彼はホルン奏者シュテフェックに注文を出しました。
吹き方を説明すると、シュテフェックはまったくその通りに吹いてみせたのです。
ターリッヒは別室に行き、泣き出しました。
『彼らに教えることは何もない。彼らは、私を越えたよ。』と。」


胸を打つ話です。
その厳しさは、楽団への愛情に裏打ちされたものだったに違いありません。

さて、ターリッヒの録音に話を移しましょう。
先述のような「お国もの」については、たとえばスメタナなら「わが祖国」全曲、ドヴォルザークでは「新世界」「スラヴ舞曲集」「スターバト・マーテル」、若きロストロポーヴィチと共演した「チェロ協奏曲」など、今もその生命を失うことがない、素晴らしい名盤の数々が残されています。
その一方、他国の作品については、かなりもどかしい思いをしなければなりません。実際のところターリッヒは、早くからマーラーの交響曲を取り上げるなど、決してレパートリーの狭い指揮者では無かった筈なのですが、それを伺わせる録音はごく限られています。陽の目を見ていないだけなのかも知れませんが、ベートーヴェンの交響曲にしても、僅かな断片を除けば、ほぼ存在しないに等しいのです。
そんな中でかろうじて、モーツァルトは相当なウェイトを占めていると言えるでしょう。廃盤も多く、現状でその全てを集めるのはかなり難しいのですが、少なくともCD3枚分の音源が存在しています。
わたくしがターリッヒのモーツァルトの魅力に開眼した契機は、チェコのレーベルMultisonicから発売されたシリーズ、"Prague Spring Collection"の一点、
"Smetana/Mozart/Wagner by Václav Talich"(31 0151-2)
に収録された、「魔笛」の序曲を聴いたことです。このCD、大手通販サイトでは在庫が見つからず、やむなく品番のみの掲載と相成りました。しかし、レーベル自体は活動を続けているようなので、輸入盤の個別注文取り扱っている店舗ならば、入荷する可能性は高いです。
ターリッヒ唯一(?)のワーグナー、「トリスタンとイゾルデ」の第一幕前奏曲と「愛の死」も収録されており、ご関心の向きは、お探しになるだけの価値が必ずあることと存じます。

さて、「魔笛」序曲に話題を戻しましょう。全曲通しで6分27秒というデータからも明らかなように、ターリッヒが採っているテンポはかなり速い部類に属します。しかし、わたくしは、その点について一度たりとも意識したことがありません。イン・テンポに徹してこの速さであれば、また印象も異なるのかもしれませんが、ターリッヒはフレーズに応じて微妙なコントロールを行っています。
トゥッティで始まる序奏は、必ずしも快速調というわけではありません。あの冒頭の三和音も、充分なパウゼを取りながら荘厳に音化されるのです。続く弦によるアダージョの旋律は対照的に、非常に抑制された印象を与えます。
その緊張感を保ちながら、アレグロの主部が始まります。
テンポは一転して速められ、弦のスタッカートに、木管が加わり、やがて、トゥッティ。響きは解放され、カタルシスの到来です。

この時代、チェコ・フィルの木管セクションは、各奏者の技量よりも楽器固有の音色を強く感じさせるところがあります。ターリッヒは更にその特質を強調することが多いため、洗練味とは些か縁遠くなりがちです。時として野暮ったい、田舎臭いと評される所以でしょう。しかし、殊にモーツァルトに於いては、その要素がプラスに作用する事の方が多いと感じます。パート同士が掛け合いを演じる楽しさは、モーツァルトの音楽に欠かしてはならない筈なのですが、ターリッヒほどそれを堪能させてくれる指揮者は、決して多くありません。「魔笛」序曲についても、快調な弦の響きと一体化しながら、主題を継いでゆく木管は、どこか室内楽的な親密さを漂わせており、それが音楽に際立った生彩を与えているのです。
また、ターリッヒが持つ拍節感の素晴らしさも特筆に値します。これは師であるニキシュから、ひいてはモットルやマーラーと言った、19世紀後半に名を馳せた巨匠から、ターリッヒが最良の形で継承した遺産でしょう。上滑りしたまま、あるいは無感動にテンポを速められたところで、それが聴く者を惹きつけることはありません。しかし、ターリッヒの快速調は、楽想全体を結末まで自然に導くために、須く生じたものです。言うなれば、音楽の脈動と一致するものです。
こればかりは、実際の音こそが最大の説得力を持っています。

モーツァルトが軽薄に響くとすれば、それは演奏が悪いのです。


何気なく書き始めた題材でしたが、いざ文面を連ねると自ら持て余す程に思いの丈が横溢していることを知りました。書いては消し、を繰り返し、ここまで都合3日を要した次第です。
ターリッヒによる「魔笛」の序曲は、レヴィーン夫妻が共演した K.448の「2台のピアノのためのソナタ」と並んで、わたくしにとって、モーツァルトを聴く喜びの最たるものです。

そして、モーツァルトを聴く悲しみ、それはまた別の機会を期することに致します。

最後に、ターリッヒのモーツァルトで、通販サイトを介して手に入るアイテムを何点かご紹介致します。

◆モーツァルト:交響曲第33番、38番、セレナード第12番(抜粋)/multisonic 31 0078-2


◆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」/モーツァルト:交響曲第39番/Supraphon 11 1908-2 001


とりわけ後者、わたくしにとって第39番は、モーツァルトの交響曲の中でも特に愛好している作品ですが、ターリッヒの演奏はその原点なのです。「悲愴」の名演と一対になっていることもあって、特に推薦したいと存じます。
 
 
 

|

« 夕雲たなびけり | Main | 悟り、また迷い、の窓 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




« 夕雲たなびけり | Main | 悟り、また迷い、の窓 »