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Sunday, October 24, 2004

ヤン・クベリーク、そしてミュシャ

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前回のドルドラに引き続いて、チェコ出身の名ヴァイオリニスト、今回はヤン・クベリーク(1880-1940/写真)について。

前回記事でも触れた通り、この人は指揮者ラファエル・クーベリック(1914-1996)の父親です。ラファエルの音楽家としてのキャリアは父の伴奏者として始まったという事で、その経緯はドキュメンタリー「クーベリック その生涯の秘密」に詳しいようです(わたくしは未見ですが…)。

プラハ近郊のミクリに生まれたヤン・クベリークは、5歳からヴァイオリンを始め、カレル・ヴェーバーとカレル・オンドリチェク(フランティシェクの弟)に師事しました。8歳でヴュータンの協奏曲を弾いてデビュー、12歳でプラハ音楽院に入学して、名教師オタカル・シェフチークのもとで6年間の研鑽を重ねます。
以後、正確かつ高度なテクニックを習得したクベリークは、超絶技巧のヴァイオリニストとして、ヨーロッパのステージを席巻してゆきました。その成功は極めてセンセーショナルなもので、ヴァイオリンに於いてはパガニーニ以来とさえ言われた程です。財政難に陥っていたチェコ・フィルが、クベリークの出演を仰ぐことで持ち直した、という経緯も草創期にはあったようです。

1903年にクベリークは、ハンガリーの女伯爵マリアンヌ・チェキー=セルと結婚します。
また、彼のもとには人気相応の莫大な演奏報酬が舞い込みました。生活も豪奢を極め、シレジアの古城を購入し、母国には多くの土地を所有していたとのことです。
それに伴って、何かとゴシップが取り沙汰されたそうです。とりわけ、自らの指に多額の保険を掛けた際には、少なからぬ世間の顰蹙を集めたとも伝わります。
ヴィルトゥオーゾとしてのクベリークの全盛期は決して長くはなく、遅くとも1910年代の終わりには陰りを見せ始めていたようです。大正期に来日して数回の公演を開いた際にも、その評価はあまり芳しいものではありませんでした。ただ、当時の日本の愛好家達(附記しておくと、世界的に見ても高い水準にありました)が、技巧型の演奏家を必ずしも好んではいなかった、という傾向も関係しているようにも思います。
その頃からクベリークは、演奏よりも作曲に重点を置いた活動に転じました。モーツァルトやベートーヴェン、ブラームス、そしてパガニーニやヴィエニャフスキなど、様々な作曲家によるヴァイオリン協奏曲のカデンツァを手掛けた他、ヴァイオリン小品から管弦楽との協奏的作品などをものしています。しかし、本人が望んだほどの成功には到らなかったようです。
やがて資産運用の失敗に因る経済的な苦境に陥りながら、クベリークは演奏活動を再開しました。息子ラファエルとの共演も、この頃に始まったようです。しかしながら、技巧的な衰えとスタイルの崩れは顕著で、あるコンサートに招かれた恩師シェフチークは、「聴くに堪えない」と、途中で席を立ってしまった、というエピソードも伝わっています。
ともあれ、クベリークは1940年に60歳で没する直前まで、ステージに立ち続けました。録音歴も1902年から開始されており、この当時の演奏家には珍しく、ステージ・キャリアがほぼ完全にレコードによって記録されていることになります。

通常なら、ここから録音そのものについて述べてゆく所なのですが、今回は少し趣向を変えてみたいと思います。

本記事のタイトルのミュシャとは、チェコ出身の画家、他ならぬアルフォンス・ミュシャ(Alfons/Alphonse Mucha 1860-1939)のことです。
クベリークとミュシャとを併記したのは、決して奇を衒ったのでもなく、またこじつけたのでもありません。
両者は1905年にニューヨークで知り合って以来、終生に渡る親交を持ち続けていたとのことです。残念なことに詳しい資料が見つからず、実際にどのようなものであったかまでは知り得ずにいます。しかし、その結びつきが浅からぬものであったということは、プラハはヴィシェフラドの丘、聖ペトル・パヴェル教会の墓地に在る、両者の墓碑が示しているように思われるのです。
スメタナやドヴォルザークも埋葬されているこの墓地の共同部分で、クベリークとミュシャは同一の区画で眠っています。
その経緯は偶然とも必然ともつきませんが、1年違いで没した両者、やはり何らかの遺志あっての事かもしれません。そして1996年に没したラファエル・クーベリックも、生前の意向からこの区画に葬られ、現在は三人の名が共に刻まれた碑銘が嵌め込まれているそうです。


ミュシャが描いた、夢見るように優美なポスター芸術の数々と、クベリークがヴァイオリニストとしての全盛期、1900年代初頭に残した録音群。その両方に接すると、何か共通した趣を感じずにはいられません。
実際にその証左を示し得る復刻CDは、現時点では残念ながら入手困難となっています。

参考までに挙げておくと、

Jan Kubelik The Acoustic Recordings 1902-1913(英Biddulph LAB033-034)

という2枚組のCDが、それです。

Biddulphはイギリスの歴史的録音復刻レーベルで、特にヴァイオリンの音源の充実ぶりは目覚ましいものがありました。トランスファーも丁寧なもので、現在、他のレーベルで盛んに活動している、ウォード・マーストンや、マーク・オバート=ソーンといった名エンジニアが多くのCDを手掛けています。同レーベルは一時期の低迷を経て、最近また活動を再開したようですが、廃盤状態のアイテムが少なくありません。クベリークのみならず、もう一度流通させて欲しいものが沢山あるのですが…。

さて、クベリークの演奏に話題を戻します。
上掲の復刻CDには、今は殆ど演奏されなくなったサロン風の小曲が多数含まれています。前回記事で取り上げたドルドラの作品は、「思い出」「セレナード」「子守歌」「幻影」の4曲。その他にはイタリアの作品が目立ちます。いずれも同国のレーベル、フォノティピア(Fonotipia)への録音であることが関係しているのかもしれません。名ヴァイオリニスト/作曲家、アルフレード・ダンブロジオ(Alfredo d' Ambrosio 1871-1914)の「ロマンス」「セレナード」、ワーグナーとも親交があった作曲家/ピアニスト、ジョヴァンニ・ズガンバーティ(Giovanni Sgambati 1841-1914)の「ナポリのセレナード」、声楽教師としても著名だったアルベルト=イグニオ・ランデガー(Alberto Iginio Randegger 1832-1911)の「ピエロのセレナード」などなど…。
こうした作品の悉くが、クベリークの美音によって淡い光彩を放っています。
カザルスも初期の録音で吹き込んでいる「ナポリのセレナード」は、クベリークの録音の方がよりノスタルジックな雰囲気です。
今や殆ど聴くことも叶わない「ピエロのセレナード」も、実に魅力溢れる佳曲。タイトルが想像させるものは様々ですが、この曲は、涙のメーキャップ、道化のペーソスを見事に描いていると思います。

個別に挙げると、きりがありません。古風なクベリークのスタイルは、こうした忘れられた小品の為に存在するかのようです。古い録音が喚起するノスタルジーの有様も様々ですが、クベリークについては、我々の祖父母や曾祖父母を介しても、もはや届かない彼方に在ることを感じさせます。同年配のティボーや、少し年長のクライスラーよりも、ずっと遠い存在であるように思われるのです。
そんなクベリークの演奏は、まさしくミュシャがポスターに描いた夢幻の美と一致しています。これはシンクロニシティと言うよりは、むしろ両者の芸術が同じ世界に存在しているからなのでしょう。

Biddulph 盤が入手困難である今、このような情緒を偲ぶことが出来るタイトルを1枚ご紹介して、本記事の結びと致します。

「ネリー・メルバ:グラモフォン完全録音集/第3集」(香港Naxos 8.110743)

クベリークが1913年に、オーストラリア出身の伝説的ソプラノ歌手ネリー・メルバ(1861-1931)と共演した、バッハ/グノーの「アヴェ・マリア」と、モーツァルトの歌劇「牧人の王」のアリア、「あの人を愛そう、永遠に」の2曲が収録されています。
あまりにも有名な「アヴェ・マリア」もさることながら、モーツァルトの美しさは、殆ど夢の境地。
第一次世界大戦の勃発と共に雲散霧消した、儚きベル・エポック最後の輝きが、かくして遺されたのです。
 
 


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