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Thursday, December 02, 2004

フランツ・シャルクの「未完成」

さて、先週以来立て続けに届いたCDについて、書き連ねてゆこうと思います。
最近タガが緩んだような更新状況への反省を込めながら…(^^;

今回は、英国SYMPOSIUMレーベルから発売された1枚。

FRANZ SCHALK(SYMPOSIUM 1344)

オーストリア出身の指揮者、フランツ・シャルク(Franz Schalk,1863-1931)の録音を集めたものです。
収録曲目は以下の通り。

ベートーヴェン:
「レオノーレ」序曲第3番
交響曲第8番 ヘ長調 op93
(以上、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

シューベルト:
交響曲第8(7)番 ロ短調 「未完成」
(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)

シャルクの録音は少なく、この他にはウィーン・フィルとのベートーヴェン、交響曲第5番「運命」と同第6番「田園」が残るのみと言われています。
収録時期はシューベルトが最も古く、1928年3月2日の録音です。

このCDの目玉は、何と言ってもシューベルトです。
シャルクはウィーン・フィルと録音を行った初の著名指揮者であり、記念碑的な意義からも比較的頻繁に音源の復刻がなされてきました。しかし、「未完成」だけは、録音レーベルの違いと、オーケストラがベルリン国立歌劇場管であると云う事から、逸される事が多かった音源です。CDでの復刻は、恐らくフランスのDANTE-LYSによる2枚組のみだったのではないかと思います。
こちらはレーベルが消失したため、現在入手困難です。

さて、演奏へと話題を移しましょう。

シャルクは兄のヨーゼフ、そしてフェルディナント・レーヴェと並んで「三大使徒」とも称される、ブルックナーの高弟です。ただ、師の作品に対して大幅な改竄を加えた点で、現在では批判を集めています。
その一方で、ブルックナーの直弟子であると云う事、また、マーラーやリヒャルト・シュトラウスの接点からも、指揮者としてのシャルクは少なからぬ関心の対象です。
彼もまた、ニキシュやモットルのように、19世紀後半に数多の作曲家から信頼を寄せられていた指揮者の一人なのです。

しかしながら、実際に遺されたシャルクの録音群は、聴く人にかなりの戸惑いを生じさせるオブジェクトだと言えるでしょう。
「運命」や「田園」に代表される、ウィーン・フィルとのベートーヴェンは、はっきり言って拍子抜けするような素っ気無い演奏です。「古き佳き時代のウィーン・フィルの音色」…の如き、何らかの付加価値を設けずして、この録音の意義を見出す事は難しいとさえ思われます。
殊に「運命」では冒頭の「運命の動機」が、いきなりガサガサと崩れている点、その無頓着さ加減に面食らってしまいます。「田園」なども、よくもこんなに…と思うほど、「成り行き任せ」に近い演奏です。
勿論、名声相応の美質は確実に存在しているのですが、続く世代のワルターやフルトヴェングラーを押し退けるようなインパクトは皆無です。

そんな経緯も踏まえて、漸く接し得たシャルクの「未完成」、正直言って恐々聴き始めた次第。ただ、こちらはオーケストラが異なるセッションと云う事もあって、幾ばくかの差違を期待していたのですが…。

さて、結論です。

良い演奏でした。驚きました。

録音状態が万全で無い(強奏で音が割れる・歪む)のは残念ですが、冒頭の低弦の響きを一聴しても、込められた力の違いを感じ取る事が出来ます。
全般にテンポが速い点ではウィーン・フィルとのセッションと共通していますが、こちらではより丹念にフレーズを拾っている印象を持ちました。抑揚の幅も大きく、同根の解釈とは言え、既知の音源に比すれば別の指揮者の演奏とさえ感じられる程です。
堅実な技量で定評のあるベルリン国立歌劇場管と云う事もあってか、アンサンブルの精度も高いと思います。

総合的に見てシャルクと云う指揮者は、濃厚な表情付けを行う事よりは、音楽を進行させることに重点を置いていたのでは無いかと思いました。本来はウィーン・フィルとの録音群にも認められる特徴である筈なのですが、これらのセッションでは美質として伝わり難い感があります。御し難い名人集団を前に、シャルクはディテールを丸投げしてしまったのかもしれないし、録音用のセッションを重ねるうちに意気込みが減じてしまったのかも知れません。これは憶測の域を出ませんが…。
ベルリン国立歌劇場管弦楽団は、オーケストラによる大曲録音黎明期の重要な担い手でした。名門ベルリン・フィルに匹敵する技量を持ちながらも、この団体は更に温順な気風を有していたのでは無いか、と推察します。シャルクも同団体とのセッションでは、自分の意向をより入念に浸透させる事が出来たのではないでしょうか。


演奏に於ける同時代性と云うものは、作品の価値が定着するに伴って役割を終えてゆく性質のものであると思います。作曲家が称揚した演奏解釈とて、作品そのものと同様の生命を保つ事は恐らく有り得ないでしょう。
しかしながら、このシャルクの「未完成」に耳を傾けると、その摂理にも少しばかり抗いたくなってしまいます。
ヴィブラートを用いず、レガートや微細なポルタメントで豊かな表情を描き出す演奏様式は、今日的な感覚とは大きく隔たっており、やはりシャルクが古い時代に属する指揮者である、と云う事実を再確認させます。
そして、速めのテンポの中に浮かんでは消える、淡い陶酔と慨嘆、そして戦慄…ヒュッテンブレンナーとヘルベックが「未完成」を世に送り出した、1865年のウィーンに対して、シャルクの解釈は未だ連続性を留めているかのようです。

ウィーン・フィルとのベートーヴェンを聴いた限り、直弟子とは言えシャルクのブルックナーはつまらない演奏だったに違いない、と邪推していましたが、この機を得て考えを改める事にしました。
たとえ録音が遺されていても、ちょっとした条件の変化で印象が大きく変わってしまう、考えてみれば恐い事です。更には、ライヴとスタジオでのぶつ切りセッションとの間にも、やはり大きなギャップが存在する点、疑いようがありません。
ニキシュの機械録音然り、シャルクの電気録音然り、その真価を認めるには相当に多面的なアプローチが求められるという事実を、まざまざと実感した次第です。


実のところ、シャルクとわたくしは誕生日が同じなんです(^-^)
他愛のない話ですが、言い知れない親近感の源であったのもまた、事実でして…。
それだけに、この「未完成」は、嬉しい発見でした。

この録音を聴かずしてシャルクは語れないとさえ、今は思っています。
 
 

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