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Saturday, December 04, 2004

ダヴィドヴィッチのプロコフィエフとスクリャービン

今日、たまたま立ち寄った百貨店で中古CDの即売会が催されていました。これ幸いと物色した所、珍しいタイトルが幾つか手に入ったので、今回はその中の1枚から…。

ベラ・ダヴィドヴィッチ(Bella Davidovich,1928-)はアゼルバイジャンのバクーに生まれた女性ピアニスト。最初は生地の音楽院に学んだ後、モスクワ音楽院でヤコフ・フリエール(Yakov Flier,1912-1977)に師事しており、先日の記事で取り上げたイグムノフとは孫弟子の関係と云う事になります。
1949年の第4回ショパン・ピアノ国際コンクールでは、ポーランドのハリーナ・チェルニー=ステファンスカと同列1位に入賞。コンサート・ピアニストとしてのキャリアを華々しく開始しました。
その後、ヴァイオリニストのユリアン・シトコヴェツキー(Julian Sitkovetsky,1925-1958)と結婚。二人の間に生まれた子息が、現在第一線で活躍するヴァイオリニスト、ドミトリー・シトコヴェツキーです。

ダヴィドヴィッチは、天才肌と言うよりは早成型のピアニストであったように思われます。ショパン・コンクールに出場した時点で既に表現力の完成を見ていた一方、その後老成や円熟の気配は余り感じられません。殊に昨今の演奏活動に於いては、必ずしも芳しいとは言えない解釈も散見されるようです。
音源の多くは現在のユニバーサル系列に在りますが、この機会に調べてみた所廃盤が多くて閉口しました。カタログに残っているレパートリーも、ショパンやラフマニノフと言った具合で、かなり限定されているようです。
今回取り上げるCDは1986年に発売された1枚。"32CD"と云う規格番号が時代を感じさせます。収録曲目は以下の通りです。

◆「プロコフィエフ『ロメオとジュリエット』/ダヴィドヴィッチ」(PHILIPS 32CD-481)

プロコフィエフ:
ピアノ・ソナタ第3番 イ短調 op28
バレエ音楽「ロメオとジュリエット」からの小品 op75(抜粋)
バルコニーの情景-少女ジュリエット-モンタギュー家とキャピュレット家-
修道士ロレンス-マーキュシオ-百合の花を手にした娘達の踊り-ジュリエットに別れを告げるロメオ

スクリャービン:
ピアノ・ソナタ第2番 嬰ト短調 op19「幻想ソナタ」
詩曲op32-1/2
マズルカ op25-3/op42-1/2
ワルツ ヘ短調 op38

ロシアのピアノ作品を愛好する者としては、収録されている曲目だけでも魅力を感じてしまいます。更に、ダヴィドヴィッチがこうしたレパートリーを演奏している事自体が非常に珍しく感じられたので、先述即売会のワゴンから早々にピックアップしました。
録音年は「ロメオとジュリエット」が1982年、その他が1985年です。

全体からすると、やはりアルバムのタイトルにもなっている「ロメオとジュリエット」が最も印象に残りました。録音自体が少なく、比較対象が少ない所為もあるかもしれません。同じプロコフィエフのバレエ「シンデレラ」からのピアノ組曲は、リヒテルが度々取り上げていたので、もう少し馴染みがあるのですが…。
ともあれ、ダヴィドヴィッチは優れたピアニストです。テクニックも確立されているし、楽曲の構造を明確に立体化する技量も持ち合わせています。敢えて不足を指摘するならば、音楽を穏健に小さく纏めてしまう傾向がある点でしょう。
殊にスクリャービン、またプロコフィエフのソナタは、充分な完成度に到達しているのですが、「魔性の閃き」の如き感覚とは一線を引く志向に貫かれており、それがわたくしには物足りなく感ぜられてしまうのです。
全般に名演よりは良演、と言うべきかも知れません。勿論、それ自体が大変得難い事なのですが…。
同じスクリャービンでもショパンの影響が色濃い小品は、ミクロ的な美観で完成されていて、素晴らしいです。

「ロメオとジュリエット」のピアノ編曲版は、寡聞にしてこの音源で初めて聴く便宜を得ました。作曲者自身の手になる編曲との事です。
オーケストラ版に比べて各パートの関連性が凝縮されている分、楽曲の骨格への密接なアプローチが可能です。プロコフィエフの俊才に、剥き身で触れる心地がしました。
親しみ易い旋律美に留まりつつも、押さえ所で清新な和声や対位法をビシッと決めるこの才能、此所まで来るともはやイヤミですらあります。全く以て素晴らしい…。
プロコフィエフはロシア革命による亡命を経て再びソ連に帰国して、その後の創作人生全てをスターリン政権下で過ごしました。実はプロコフィエフとスターリン、同年同月同日の、1953年3月5日に没しているのです。

全体主義下での創作活動は制約が多く、プロコフィエフ自身も相当な辛酸を味わっています。しかしながら、遺された様々な作品を聴いていると、やるだけの事はやり切った生涯なのでは無いか、とも思われるのです。
たとえば、セルゲイ・エイゼンシュテインとの共同作業、「アレクサンドル・ネフスキー」(1937年)。これは映像-音楽の一体化に先鞭を付けた革新的な作品であり、その素晴らしい相乗効果は今なお、観る者に鮮烈な衝撃をもたらします。
「ロメオとジュリエット」も然り。ピアノ独奏版と云うディフォルメされた形式で鑑賞すると、この作品が如何にモダンな感性に貫かれているか、イヤと言う程判ります。
仮にこの人が亡命後もアメリカに留まり、ハリウッドで映画音楽を多く手掛けていたならどうなっていた事でしょう。映画音楽に於ける描写性 ─画面効果・心理表現 etc─ 現状とは全く異なった手法がもたらされていた可能性は、大いにあると思います。

本題から脱線して戯言を連ねてしまいましたが、聴きながらに色々なことを考えさせられました。それも、ダヴィドヴィッチの信頼出来るテクニックと、誠実な表現力あってのものです。素敵な音源を手に入れたな、と思います。
他方で、こうした音源がお蔵入りになり、演奏家のイメージが特定の方向に誘導されてしまう…考えてみると恐いです。ショパン・コンクールの上位入賞者には、そうした呪縛を免れ得ない人が何人も在りますね…。

それにしても、「ロメオとジュリエット」の「モンタギュー家とキャピュレット家」って本当に恰好良い曲です!
何年か前には、シャネルが「エゴイスト」(EGOIST)のCMでこの曲を使っていました。それが実に様になっていて、未だに忘れられません。
画面に映し出された壁面、幾つもの窓から女性が入れ替わり立ち替わり姿を現し、"EGOIST!"と連呼するCM、記憶されている方も多いのではないかとお見受け致しますが、如何でしょう?
この曲はプロコフィエフ自身が指揮した録音が残っています。
ギクシャクとした指揮と粗いアンサンブルの演奏ですが、それが却って人間心理のクライシスを感じさせる雰囲気をもたらしていて、なかなかに捨て難いです。
 
 

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