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Monday, January 17, 2005

阪神・淡路大震災10年に寄せて。

兵庫県一帯、大阪府を中心に甚大な被害をもたらした、阪神・淡路大震災から間もなく10年が経とうとしています。
その時、わたくしの居住圏が記録した震度は5強です。確かに未体験の大きな揺れではありましたが、身辺に殆ど被害はありませんでした。

「えらい大きな地震が来たな…」
その日は未明まで部屋の片付けに取りかかっていた為、まだ充分に眠っていなかったのです。揺れが収まったのを確かめるや、わたくしは再び眠りに就きました。
その同時刻に、未曾有の惨禍が発生し、更に拡大していようとは想像だにしません。

数時間を経て起床、家族が観ているテレビの報道を、一瞥。先刻の大きな揺れが、ほんの数十㎞向こうの阪神地域で、大災害の様相を呈していました。
第一報の時点で、神戸周辺の状況は殆ど報道されていなかったと記憶しています。より東寄りの芦屋、伊丹、西宮など、そして大阪府内で大きな被害を受けた地域と…。
無論、それだけでも、ただ事では無いと理解するには充分でした。
高架ごと倒壊した阪急電鉄伊丹駅の惨状は、その時点で殊に強く印象に残りました。
そして、地震発生当初の神戸は報道を発信するどころでは無く、各地の被害状況も全体像として繋がらなかったのです。

学校から帰ると、神戸市を中心とした尋常ならざる被害の実像が、より仔細に報道されています。時を追う毎に増え続ける犠牲者の数…。

当時芦屋には、わたくしの母方の伯父が住んでいました。
…大丈夫だろうか? 漠とした不安が次第に現実味を帯びた懸念となって、家族の間で話題に上ります。

数日を経て、近在の身内で集まった上で、芦屋まで伯父を見舞う事になりました。
わたくしの父と、母方の伯母、わたくしと弟の4人で、迂回運行する阪急電鉄を乗り継いで、芦屋へ。
その時点で阪急電鉄は、辛うじて西宮北口まで運行していました。其所から先は徒歩です。

列車が西へ西へと進むに連れて、次第に目にする光景が変化しました。まず、剥落した屋根が目につき始め、其所此所で青いビニールシートが被せられています。やがて、古い木造家屋が倒壊した姿が、そしてモルタル造りの住宅が、鉄筋コンクリートのビルが、傾き、倒壊した姿が…。

西宮北口の駅舎に到着した時点で、其所は完全に被災地の様相でした。
上下水道を初め、ライフラインの大半が途絶えています。水が流せず、ひどい状態のトイレ…。

駅前にも倒壊した建築物が、幾棟も見受けられます。

其所から約8km、芦屋へと歩き始めました。
大きくひび割れた道路、全てのマンホールが数十㎝に渡って浮き出しています。そこに腹を擦りながら通過してゆく、手書き文字で「災害支援」(私用でも方便的に使われていたこの表示は、やがて規制・自制されるようになります)と貼り付けた自動車。
リュックサックを背負った人々が、列を成して埃の舞う中を西へ西へと歩いて行きます。
沿道の倒壊家屋も一層目立ち始めました。
「住まっていた人々は大丈夫だったのだろうか…。」
そう案じずにはいられませんが、かと言ってそれ以上の事を察することは出来ません。無事を知らせる、或いは安否を気遣うマジック書きの張り紙。
伯父と家族はどうしているだろうか、まだ何も判りません。

3時間近く歩き続けて、漸く伯父のマンションに到着しました。建物全体が傾斜しながらも、どうにか形状は保たれています。
家族共々、幸い無事だった伯父は我々の突然の来訪に驚きながらも、地震発生時の状況、その後の生活を語り始めました。寝所の家具が向き合って倒れた狭間に取り残され、辛うじて事無きを得たこと、浴槽に残していた水で、どうにか生活用水を繋いでいる事…。

再度の訪問を約束して、我々は伯父の住居を後にしました。

また同じ道程を、今度は日没後に辿り始めます。
すると、どうしたものかステーションワゴンに乗る男性が声をかけてきました。暗い不案内な道は大変だろうから、最寄りの運行駅まで送って下さると申し出てくれたのです。
思い返せば既に、往路・復路、至る所に人と人との支え合いが在りました。大きな損害を被りながらも、残った中から提供出来るものを提供し合う事、ちょっとした不便でも、普段以上に声を掛け合う事…。

被災後の神戸を最初に訪れたのは、その年の夏の事です。
未だ完全には撤去されていない瓦礫の山、傾斜、半壊した住宅。随所で途切れ、補修されている阪神高速…。
歩いていると、汗が滲む肌に埃が黒くべったりと付着しました。復興作業はそんな中で、途切れることなく続けられます。


あれから10年、その間にわたくしが神戸との間を往来したスパンは、かなりの間隔があります。
訪れる都度に、発生直後に目にした沿道の風景は復興を遂げてゆきました。
現在、震災の爪痕を直接留めている箇所は、もう殆ど残されてはいないのでしょう。それが、復興と云うものです。
しかし、西へ西へと進むに連れて、風景の中から減ってゆくものがあります。それは、市街の陰翳を形成する古い建造物です。
替わって建てられた新しい建造物には、今も元の方が住まってらっしゃるのでしょうか…?
そんな事をいつも考えます。

街が今の姿に至るまでに乗り越えてきたもの、そのプロセスは、被災による惨状程に詳しくは知りません。
何かを失う事も無く、そして復興に対して何ら貢献していないわたくしは、被災状況をある程度は見知りながらも、ただの傍観者に過ぎません。

しかし、だからこそ、この身に置き換えて考えたいのです。
災害で多くのものを失い、それを取り戻すために積み重ねられてきた、一人一人のこの10年と云うものを…。


芦屋の伯父はその後数年を経て急逝しました。やはり震災後は激務が続いたようです。

風呂の水は、今も入れ替えの直前まで残すようにしています。
 
 
 

6433人の尊い生命に、衷心から哀悼の意を捧げつつ。

2005年1月17日
 
 

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