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Saturday, January 22, 2005

スクリャービン/練習曲op.8の全曲盤(3)

さて、当初の予定から大幅に文字数を増して(毎度の事ですが…)展開致しました、「スクリャービン/練習曲op.8の全曲盤」、3回目の今回をもちまして完結と相成ります。
ああ、やっと肩の荷が降りる…。
正直、連続記事を余儀なくされた際の「退くに退けない」感じは、しんどいものです(^^;


今回取り上げるのは、下記の全曲盤です。

◆ミハイル・ヴォスクレセンスキィ/スクリャービン:エチュード全集(meldac-TRITON/DICC26052/廃盤)

自国のモスクワ音楽院をはじめ、我が国では桐朋学園大学や東京芸術大学等での教育活動によって著名な、ミハイル・ヴォスクレセンスキー(Mikhail Voskresensky,1935-)。
この「エチュード全集」は、彼が「ピアノ・ソナタ全集」と共にメルダックへ録音したスクリャービン・アルバムです。
op.2-1の練習曲に始まり、op.8、op.42、op.49-1、op.56-4、op.65に至るまで、スクリャービンによる「練習曲」の名を冠したピアノ作品が全て網羅されています。ソナタ全集と併行した非常に参照性の高い企画に、博識なヴォスクレセンスキーの意向が窺い知れるかのようです。

「ロシア・ピアニズム」の系譜から辿ると、ヴォスクレセンスキーはイグムノフ-レフ・オボーリン(Lev Oborin,1907-1974)と続くスクールに属しています。オボーリンに師事したと云うことは、アシュケナージや指揮者のロジェストヴェンスキー(これは意外かも…)とは、同門弟子の関係に当たる訳です。
どちらかと言えば教育者としての名声が先んずるヴォスクレセンスキーですが、わたくしが聴き知る範疇に於いて、彼の演奏は師オボーリンの様式をよく継承していると感じます。師弟共にメカニックを隈無く錬成し、堅固な構造感を誇るピアニストです。
残念ながら、オボーリンが録音したスクリャービンのピアノ・ソナタ第2番を未聴なのですが、両者の比較が叶えば興味深いだろうと思っています。

ヴォスクレセンスキーが弾くスクリャービンは、ソナタ全集に於いても同様のことが言えるのですが、誠実かつ端正である点が最大の美質であると言えるでしょう。テンペラメントの横溢に偏る事は決して無いし、徹頭徹尾むらの無い仕上がりは見事です。
作品が持ついわゆる「スタディ」としての側面に光を当てるのならば、ヴォスクレセンスキーの演奏は申し分の無い完成度に達しています。op.8について言うならば、全曲演奏としての示準たり得る優れた演奏です。
当記事の趣旨はあくまで同曲集にあるのですから、本来ならそれで全く問題は無い筈なのですが…。

率直に言ってしまえば、アルバム全体を通して、物足りなさを禁じ得ない側面がありました。殊に、聴き始めの時分に、強く。
ここに聴かれるスクリャービンは、一度や二度聴いただけでは印象が希薄なのです。先程「誠実かつ端正」と云う表現でこの演奏を称揚しましたが、逆にその志向が楽想との齟齬を生じているようにも感じれられました。
例えばop.42-5の練習曲、ヴォスクレセンスキーの演奏は見事に「譜面通り」の再現を成し得ています。ソフロニツキーやスタニスラフ・ネイガウスに入れ込んできた身としては、「ああ、こんな音も鳴っていたんだ」と言う位に。でも、不思議とわたくしの心を捉えるのは、ミス・タッチや楽想のディフォルメが目立つ前二者の方なのです。これは何故なのでしょうか…?
その辺りに、スクリャービンと云う作曲家の本質が透けて見えるようにも思われます。

ヴォスクレセンスキーの師、オボーリンと同門のピアニスト、マリヤ・グリンベルグ(Maria Grinberg,1908-1978)は、自らのレパートリーについて、

「…私にはスクリャービンとショパン以外の作曲家の作品は身近なものと感じられるのです。」

との談話を遺しています。女性ピアニストとしては初めてベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を完成したグリンベルグ。彼女程の優れたピアニストをして、スクリャービンは隔たりを感じさせずにはいられなかった作曲家なのです。
彼らのスクールの源流たるイグムノフは、スクリャービン自身と面識を持っていました。以前の記事でも記した通り、両者とラフマニノフを加えた3人は同じズヴェーレフ門下の生徒です。しかし、イグムノフの略歴から概観すると、演奏家として彼が抱いていたシンパシーは、スクリャービンよりはむしろラフマニノフにあったものと見受けられます。
これはあくまでも拙見なのですが、スクリャービンとラフマニノフが、作曲家としても演奏家としても袂を分かったように、イグムノフとスクリャービンの間にも、ある種の線引きが生じていたのでは無いかと思うのです。
事実、その弟子たるグリンベルグも、またオボーリンも、ラフマニノフの演奏に際しては、高い適性を示しているものと感じます。

これまで連ねてきたように、ヴォスクレセンスキーのスクリャービンを聴いていると、当初は今一つ入り込めないと感じていました。しかし、尚繰り返し聴き続けると、やはり何か心を捉えるものが認められます。
これは完全にわたくしの先入観なのかもしれませんが、ヴォスクレセンスキーの演奏が根底に宿している、スラヴ的な要素が、やはり楽想の奥深い所では、共鳴しているのではないか、と…。

それならば、ヴォスクレセンスキーが弾くラフマニノフを是非聴いてみたいと思います。

亡命先のアメリカで、母国への郷愁を楽想に紡ぎ続けたラフマニノフ。
ヴォスクレセンスキーが有する確かな技量は、その中に於いて、更に活きるものと感じられてなりません。

スクリャービンとは、つくづく不思議な作曲家ですね。
私自身、よく分からないまま好きになってしまった所があります。「神秘主義」と云う一般的なカテゴライズだけでは理解しきれないような、危うい魅力の源…。
様々な演奏を聴き比べたい、とのモチベーションが持続しているのは、それを探り当てたいからなのかも知れません。

 

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