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Saturday, August 29, 2009

24のプレリュードとフーガ/ニコラーエワ(1962年第1回録音)

ショスタコーヴィチ:24のプレリュード(前奏曲)とフーガ
タチアナ・ニコラーエワ(Tatiana Nikolayeva/1924-1993,ピアノ)
1962年録音(STEREO)
Venezia CDVE04363

長らく入手困難になっていた音源だが、先般Veneziaが焼き直してくれた。CDとしての発売はかれこれ15年以上前、まだJVCがMELODIYA音源を扱っていた頃に一度あった限りの筈だ。
私はその時分にはこの作品に開眼するどころではなかったので、今回Veneziaからの廉価発売をもってようやく耳にすることが叶ったという次第である。

この作品の被献呈者であるニコラーエワの第2回録音(1987)と第3回録音(1990)については、既に聴き知っていた。いずれも非の打ち所の無い演奏記録として世評は固まっているところではあるけれども、個人的には受け入れ難い演奏だと感じていた。
この上なく端整を極めた演奏ではあるものの、私の好みから申せば、あまりにもソリッドなのである。言うなれば意匠図案を眺めているような気分で、情緒に乏しいのである。
情緒などというものに何故拘泥するのかと言えば、結局は私の個人的な体験と嗜好に帰する問題でしかない。私が初めて触れたこの作品の演奏が、他ならぬショスタコーヴィチ自身による抜粋演奏だったからである。
これは1958年、健康問題からショスタコーヴィチの演奏技能に重大な翳りが見えていた時期の録音だ。それにも係わらず、あらん限りの気力を込めて打ち立てられたこの演奏は、対峙するものの心を動かさずにはおかない。殊に終曲第24番に横溢する巨大な精神と意思は、演奏技能という「手段」に収まりきらない概念が確かに実在することを知らしめるのである。
このような演奏によってもたらされる感興を、それ以後の世代による全曲録音に対しても求め続けるのは、なかなか辛いものがある。だが、私は求めずにはいられなかった。そうして、長らく満たされぬ心持ちでいた。何種類も全曲盤を買い集め、幾ばくかでもショスタコーヴィチ自身による演奏に通ずる雰囲気を参酌しながら、ひとまずは間に合わせていた。

そして、長らく入手が叶わなかったニコラーエワの初録音、この音源には何となく、自分が求めているものが宿っていそうな気がしていた。根拠は無いが、ショスタコーヴィチ自身が健在であるうちに製作された、恐らく唯一の全曲録音であるという意義付けは、やはり特別であるように思われたのである。
求め続けてこの度ようやく聴き得たこの音源は、果たして大変に素晴らしかった。
ソヴィエトにおける最初期に属するステレオ録音なので、音質は甚だ痩せていてすぐれない。だが、それさえも時代の刻印として取り込んでしまったかのようなニコラーエワの演奏は、代替するものをほとんど認めさせない程の説得力を有している。総じて力強く、終始弛まぬ推進力は、当時もはや自力で弾くことも覚束なくなりつつあった作曲家自身の志を、そのままに受け継いでいるかのようではないか!
ここに及びようやく、私は思い描いていた演奏像によって完成された全曲盤に出会うことが叶った。

ショスタコーヴィチの「24のプレリュードとフーガ」は、20世紀に創造されたピアノ作品の中でも抜きん出て優れた作品だ。世に広く普及している一部の交響曲のイメージをそのままに、ショスタコーヴィチという作曲家に対して辟易している方があれば、まずはこの作品からのアプローチをお勧めしたいと常々私は考えている。
これは決して晦渋ではなく、日頃親しむに何ら不足の無い作品だ。ショスタコーヴィチという作曲家が自らの才知と技法の精髄を以って編み上げた、美しき音楽の時祷書である。
 

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