文化・芸術

Saturday, May 30, 2009

ギリヤーク尼ヶ崎、白川軍八郎

京都文教大学人間学研究所主催の公開シンポジウム、「鬼の踊りから祈りの踊りへ~大道芸人・ギリヤーク尼ヶ崎 40年の軌跡」(2009年5月30日13時~16時・於・五條会館)へと足を運んだ。
大道芸人・舞踊家ギリヤーク尼ヶ崎が、生い立ちから長い芸歴にいたるまでを自ら振り返るという内容。専ら街頭での公演を活動の場とする人だから、こうした形式でのイベント出演はとても貴重な機会だ。
映像の上映、談話の後には「じょんがら一代」「よされ節」念仏じょんがら」の舞踊上演まで行われた。ファンをもって任ずる者にとっては、本当に逸するべからざる貴重な機会だったと思う。
舞台でギリヤーク尼ヶ崎の舞踏を鑑賞する機会は極めて稀なことで、一体どんな内容になるだろうかと期待と不安が入り交じった心持ちだったが、それはご本人も全く同じだったことが公演後の言葉で明らかになった。オーディエンスに対して頻りに「舞台でも大丈夫でしたか」と訊ねる、飾ることのない謙虚さに心打たれる。大丈夫、どころか、街頭では雰囲気に気圧されてなかなか見届けることのできない、細かなニュアンスの豊かさを新発見し、深く感じ入った。演目のクライマックス「念仏じょんがら」で、街頭のように水を被ることができない代わりに、紙吹雪が用いられていた。あのアクションは進行上欠かせない重要なものなので、会場の制約を克服し、なおかつ視覚に訴える形に昇華したアイディアには唸らされた。
肺気腫を患い、ついには昨年末心臓ペースメーカー施術を受けなおあの激動の舞踊を続ける意志力には感動するほかない。身体能力の限界と常に直面しながらの舞踊公演は対峙する者に「痛み」を共有させずにはいられないが、それだけに訴求する力の強さはいや増しに増し続けている。

さて、ギリヤーク尼ヶ崎と聞けば何と言っても「じょんがら」だが、このシンポジウムで面白い話があった。自身の舞踊とじょんがらの「なれそめ」について回想される中で、旅回りの津軽芸能の公演を幼い頃に鑑賞して強い感銘を受けたというエピソードがあった。「ほら、あれが日本一の三味線弾きだよ」と言われ指し示されたその弾き手の素晴らしさが今も根底にあるのだ、と。そして自身が舞踊に用いている津軽三味線は、その弾き手のものなのだ。かつて高橋竹山という名手があったが、と引きつつ、その弾き手は更に古い世代の人で、もっと速く弾く、それが自分の「じょんがら」にはピッタリなのだ、と。
その時は、具体的に誰という名は出されなかった。それが私にはどうしても気になったものだから、公演後、ギリヤークさんに直接訊ねてみた。「その弾き手は、ひょっとしたら白川軍八郎ですか?」と言うと、ギリヤークさんは「そう、よくわかったね!」と嬉しそうに仰った。「もう誰も知らない人だと思っていたから、まさか言い当てられるとは思わなかったよ。自分が子どもの頃に聴いたのがまさに白川軍八郎だった。三橋美智也の先生で、日劇で師弟協演の公演をやって…」云々。今でも青森で公演を行うと、年配の人からは「白川軍八郎だね」と指摘されることがあるという。昔の人はそれと聴いてまだ判るのだ。
私にとっては何と言っても空前絶後の津軽三味線奏者、白川軍八郎。そして、ギリヤーク尼ヶ崎が、かくも深い由緒から白川軍八郎の三味線を長年舞踊に用いてきたのだという事実に接し、この上ない感動を覚える。惹かれ合うべき者同士が自然に結びついた成り行きに相違あるまい。大道で歳月を重ね、荒々しく磨かれ続けたその芸の源流は、想像を遙かに超えて深い。

白川軍八郎については、2004年の当blogエントリー、津軽三味線(1)─白川軍八郎をご覧下さい。
 

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Sunday, March 08, 2009

「懺悔」「タブラ・ラサ」

もっと効率の良い記述方法に注ぐ努力の余地はあるが、順序を優先して書かせて頂きたい。

昨年夏に発売され、私を驚喜させたのがセルゲイ・パラジャーノフの監督作品「火の馬」DVDプレミアムエディション/デジタルリマスター版だった。

「ざくろの色」をはじめ、その後私をパラジャーノフの虜にした端緒がこの作品だったので、良質な形のサプライは本当に嬉しかった。そして、色々と特典映像を附随させた仕様となっている点も、この種の映画を嗜好する者としては有難いことだ。

複数の特典の中で、私が「はて」と首を傾げた映像がある。
それはテンギズ・アブラゼ監督の「懺悔」というグルジア映画のトレーラーで、英語字幕のみが附されている。
時間的には3-5分程だろうか?
過去と現在のソヴィエト地方都市と白日夢のようなイメージが錯綜する、強烈な印象を残すものだった。
しかし、より以上の情報が一切無い。近日DVDが出ると言うことなのか、それとも……?
ともあれ、機会があれば是非観たい映画として、脳裏の一隅に留め置かれた。

・・・・・・

先日、映画魔の妻が入会している京都シネマからの月報を、私が郵便受けから取り出した。
そうすると筆頭に「懺悔」上映情報が掲げられている。何という偶然!
「この映画はいつから上映が始まるの?」すがりつくようにして妻に訊いた。
私がシアターに足を運ぶことを億劫がるので、滅多に映画の話を持ち出さない妻だが、珍しく一声掛けようという心づもりでいてくれたらしい。
美味なるワイン、音楽、バレエ、ピロスマニの国、グルジア。
私が愛着を寄せるその国の映画ということで、空振りを承知で勧めるつもりだったそうだ。
夫婦の絆である。

岩波ホールを発信元として、全国で上映されるスケジュールらしい。
懺悔(1984)|ZAZIE FILMS

ああ、「懺悔」、遂に観ることが叶った。
滅多にシアターに足が向かない私の、その期待に違わない名作だった。

事後の感想として、ソヴィエト時代末期、体制とシンクロニシティを有しながらこの映画を観た人々は、さぞかし感動しただろうなあと思う。
皆が体験しながらも重く口を閉ざしてきた粛清の暗黒時代を、いざ、となってどのように振り返るのか、「懺悔」はそのアプローチの一つとして実に傑出した作品だった。
他方、この作品が時を得て世に出て、多くの観衆の絶大な支持を受けたのは僥倖(実際にその通りなのだ)で、同じように秀逸な企画が恐らく無数に葬られていったであろうことは想像に難くない。

何にせよ「雪どけ」期のソヴィエト社会は、追い掛けてみると面白い。
中世都市とまっすぐ一本に繋がったような生活風景と、最悪の統制社会に喘ぐ灰色の時代と、西欧の最新ヒットチャートから一年遅れくらいのポップカルチャーとが混在している世界。
配給元のサイトで配信されている予告編よりよりは、「火の馬」DVD付属のトレーラーの方が遙かに的確に、キャッチーに作品の美しさを凝縮しているのがもどかしいが……、とにかく多くの方にご覧頂きたい作品だ。

・・・・・・

そこで、アルヴォ・ペルトの「タブラ・ラサ」に話は繋がるのである。

この映画の中盤、とりわけ重く哀しいシーンに、静謐で美しい音楽が寄り添う。
「これはペルトの『タブラ・ラサ』じゃないか」と思いながら観ていたら、沈鐘のようなプリペアド・ピアノの音が入ったので間違いないと確信した。
1984年のソヴィエト映画で、「既に」ペルトの「タブラ・ラサ」が用いられている。驚愕した。
これは一体何処から持ってきた音源なのだろう。
まさかECMの音盤だというのか?
帰宅して音盤を手に取る。
"1984 ECM Records"とクレジットがある。そうだよな、発売時期と前後するよな、と思いながら収録年月日を確認して今一度驚愕した。「タブラ・ラサ」は1977年、ボン/ケルン西ドイツ放送によるライヴ・レコーディングとある。
そうか、1984年の「懺悔」制作時、既にECM盤収録の「タブラ・ラサ」は数年の時を経た音楽だったのだ。
ちなみに、同時期においてアルヴォ・ペルトは日本において未だ知る人ぞ知る音楽家である。
……だとすれば、「タブラ・ラサ」は一体、当初はどういう形態で、どの経済圏に供給されたのか?
思えば、アルフレード・シュニトケがプリペアード・ピアノを弾いているのも妙だ。
この人も自作自演が幾つかあるが、積極的にパフォーマンスを行う作曲家というイメージはない。
それが、他作の演奏に参加するとはどういうことだろう?
ペルトの人徳なのか、それとも、1977年のボンでのライヴは、それだけ歴史的な機会だったのか?
これは、今後の探求課題としよう。

・・・・・・

タブラ・ラサ──この音楽を如何に語ろう?

光 闇
陽光 陰影
水脈 流水 水滴
乳白 青白 純白 空白

至純

静謐

普段から「銀璧亭」にご来訪頂いている方には、私がお勧めするまでもないことは百も承知のこと。
あなた方には、改めて深謝と親愛の念を。

そして、何かの偶然でこの長文を読んで下さった貴方に、私は語りかけたい。
私は、私個人の使命で10枚のCDを世に遺す使命を附されたのならば、この一枚は必ず手に取るだろう。
どうか、少しでも多くの方にペルトを知って欲しい。
どんなジャンルの音楽を聴く人でも構わない。
時代が病んでいる今、このCDに収録されている音響は、静かに貴方に寄り添うだろう。あるいは、やわらかに包み込むことだろう。

とりとめもないようでいながら、日常は連鎖している。

セルゲイ・パラジャーノフ。
テンゲズ・アブラゼ。
アルヴォ・ペルト。

・・・・・・そして・・・・・・?
 

 
 

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Tuesday, January 04, 2005

帰還報告

昨晩遅くにMidnight Sugar様の御宅から帰還した次第です。厚かましくも2日続けて夕食まで御馳走になってしまいました。
この場を借りて、改めて御礼申し上げたいと存じます。
ありがとうございました。

新年早々にお邪魔してしまいましたが、お陰様で賑やかで楽しい時間を過ごす事が出来ました。
色々とお酒を飲んだ後、その流れで夜遅くまで麻雀、と云う流れに…(^^;
わたくし麻雀は全く心得が無かったのですが、一からレクチャー頂いて、結局2周目オーラスまで参加してしまいました。
考えてみれば麻雀は重要な社交遊戯ですからね。覚えて置くに越した事は無いでしょう。面子が揃わないと実戦経験は積めませんが、ここは一つ、ゲームソフト等で鍛えてみようかと思ったりして…。


久しぶりに直接お会いする便宜を得て、漸くお伝え出来た事もありました。
御作の感想もそうですが、Midnight Sugar様のサイトについても、ちらほらと…。

氏のサイトは以前に移転なさっていて、その際に複数のコンテンツがUnder constructの状態となりました。
中でも再アップロードが望まれるのが、ジャズ関連のコンテンツです。
Midnight Sugar様はニューヨークに滞在されていた時期に、アート・ブレイキーファラオ・サンダースと云った人々と面識をお持ちだったとの由。関連するエピソードや、その頃のハーレムの雰囲気を伝えるコラムが掲載された、素敵な内容でした。

かれこれ1年近く閲覧が出来ない状態が続いているので、この機会に強くリクエストさせて頂きました。期待してお待ち申し上げたいと思います(^-^)

それと、お伺いする度に何か音源を携えてゆくのですが、今回はアルヴォ・ペルトの「タブラ・ラサ」にしました。
Midnight Sugar様とは、以前にギドン・クレーメルの「ピアソラへのオマージュ」をきっかけに音楽談義が深まった事、そしてキース・ジャレットによるショスタコーヴィチ/「24のプレリュードとフーガ」がお気に召した事とを踏まえたチョイスです。

前掲「タブラ・ラサ」の1トラック目「フラトレス」は、クレーメルとジャレットの共演。これをお勧めせずして何を…と云った感じかもしれませんね。

特にキース・ジャレットは、もとは氏を通じてその魅力に開眼したアーティスト。ショスタコーヴィチは謂わば「フィードバック」を言う訳です。
こう云う事があるから趣味を通じての交流は楽しいもの、つくづくそれを実感します。
 
 

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Wednesday, December 01, 2004

ジョルジュ・ドン十三回忌に寄せて

1992年11日30日にジョルジュ・ドンが亡くなってから、昨日で丁度12年が経った。我々の流儀で言うならば、十三回忌である。
私がジョルジュ・ドンという舞踊家の存在を初めて認識したのは、中学1年生の時だ。
彼はクロード・ルルーシュの映画「愛と哀しみのボレロ」に、ソ連の舞踊家セルゲイ・イトヴィッチ(モデルはルドルフ・ヌレエフとの事だ)役で出演している。
そのTV放映を観たのだ。
フランス、ロシア、ドイツ、アメリカ─各々の国で数世代に渡って繰り広げられる群像劇。その綾は、年端もいかぬ私にとっては複雑に過ぎた。

けれども私は、録画したビデオを幾度と無く繰り返し、観た。
劇中でジョルジュ・ドンがベジャールの振付で踊るラヴェルの「ボレロ」、それを観たい一心で。
たとえ作品本編の印象が薄れようとも、ジョルジュ・ドン渾身の舞踊が誘った、あのクライマックスだけは終生忘れる事は無いだろう。そう思いながら、何度も観た。

それから程なく、ジョルジュ・ドンは来日した。やはりベジャールの手になる演目「ニジンスキー/神の道化」の公演の為だ。
来日に併せてジョルジュ・ドンは、「美の造化」と題されたNHKの特集番組に出演した。番組では京都でのインタビューに交え、「ボレロ」を含む代表的な演目、そして「神の道化」の全編が放送された。
ルルーシュの映画では、分断、そしてカットが施されていた「ボレロ」。「美の造化」によって、私は漸く全編を観る事が叶ったのだ。映画での印象が如何に素晴らしくはあっても、終始一貫した様態に接すること無くして、その真価は伝わりようもない。
暗黒の中、交錯するスポット・ライトに照らし出される、ジョルジュ・ドンの肉体。
静かに張りつめたモーションの一つ一つを、ただ固唾を呑んで私は見守っていた。
楽曲が、そして舞踊が高潮するに連れて、同種の芸術からはかつて経験した事のない強烈なカタルシスに導かれていった。

「神の道化」の来日公演は、私が住む街でも催された。
私は、それを事前に知っていたのである。
だが、未知の芸術境に対して尻込みしたものか、実際に足を運ぶ事は無かった。
TV放映で「神の道化」を観た時の感想は、今以て名状し難い。ただ言えるのは、これほどスピリチュアルな舞台芸術は、おおよそ存在し得ないのではないか、と云う事だ。もはや、素晴らしいと言うよりも、危うかった。
ジョルジュ・ドンは、ニジンスキーを感じ、演じるがままに、踏み込んではならない領域に踏み込んでしまったのではないか。
無類の感動と共に、得体の知れぬ恐ろしさをも感じた。

ジョルジュ・ドンがエイズで逝去したのは、翌年の事だ。辛うじて写真は添えられていたが、その記事スペースたるや申し訳程度のもので、折が悪ければ見落としていたかもしれない。その時点では、病名については伏せられていた筈だ。

だが、突然の逝去も、後に知ったその病名についても、私はごく冷静に受け止めていた。何らの意外性を感じる事もなく、全てが順当に繋がっていったのだ。
先述の「美の造化」でインタビューに答えるジョルジュ・ドン、舞台と違ってノーメイクのその素顔は、驚く程に生気を欠いていた。
既に彼は死病に蝕まれていたのであり、それを私も無意識のうちに感知していたのだと思う。

ともあれ、私はジョルジュ・ドンの舞台に接する、たった1度のチャンスを永遠に逸してしまった。

ジョルジュ・ドンが踊る「ボレロ」、映画では男女のヴォカリーズが附随した演奏を用いているが、これは普段の上演とは異なった音源だ。彼が「ボレロ」の上演に用いていたのは、ジャン・マルティノン指揮/パリ管弦楽団による演奏である。

この演奏は本当に素晴らしい。世に称揚されている「ボレロ」の名盤として、アンドレ・クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団による演奏が在るが、私は絶対的にマルティノンに左袒する。
エスプリに溢れるクリュイタンスの演奏は、言うならば熟したオレンジだ。爽やかな芳香と、甘さ。対するマルティノンの演奏は、レモンである。甘美では無いが、その酸味は心地よい。絞られた時に放つ芳香は、オレンジに倍して爽快だ。
クレッシェンドに伴われ、血と汗の滾りの中でクライマックスを迎えるジョルジュ・ドンのボレロ。マルティノンの演奏は、これ以上無い程に似つかわしい。

私はマルティノンの「ボレロ」を、何らの予備知識も無く手に入れた。だが、繰り返し聴くに連れて、ジョルジュ・ドンの舞台姿が脳裏に浮かび、大いに戸惑った。
先述の如き事実を知り得たのは更に後、全くの偶然を介してである。
マルティノンのボレロはジョルジュ・ドンのボレロとなり、私にとってはかけがえの無い演奏となった。

もはやジョルジュ・ドンの舞台姿を目の当たりにする事は叶わない。しかし、マルティノンの演奏を聴いている時、私は確かにジョルジュ・ドンの舞台姿を追体験しているのである。
 
 
関連記事>>ニジンスキーのオーケストラ
 
 

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Sunday, October 24, 2004

ヤン・クベリーク、そしてミュシャ

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前回のドルドラに引き続いて、チェコ出身の名ヴァイオリニスト、今回はヤン・クベリーク(1880-1940/写真)について。

前回記事でも触れた通り、この人は指揮者ラファエル・クーベリック(1914-1996)の父親です。ラファエルの音楽家としてのキャリアは父の伴奏者として始まったという事で、その経緯はドキュメンタリー「クーベリック その生涯の秘密」に詳しいようです(わたくしは未見ですが…)。

プラハ近郊のミクリに生まれたヤン・クベリークは、5歳からヴァイオリンを始め、カレル・ヴェーバーとカレル・オンドリチェク(フランティシェクの弟)に師事しました。8歳でヴュータンの協奏曲を弾いてデビュー、12歳でプラハ音楽院に入学して、名教師オタカル・シェフチークのもとで6年間の研鑽を重ねます。
以後、正確かつ高度なテクニックを習得したクベリークは、超絶技巧のヴァイオリニストとして、ヨーロッパのステージを席巻してゆきました。その成功は極めてセンセーショナルなもので、ヴァイオリンに於いてはパガニーニ以来とさえ言われた程です。財政難に陥っていたチェコ・フィルが、クベリークの出演を仰ぐことで持ち直した、という経緯も草創期にはあったようです。

1903年にクベリークは、ハンガリーの女伯爵マリアンヌ・チェキー=セルと結婚します。
また、彼のもとには人気相応の莫大な演奏報酬が舞い込みました。生活も豪奢を極め、シレジアの古城を購入し、母国には多くの土地を所有していたとのことです。
それに伴って、何かとゴシップが取り沙汰されたそうです。とりわけ、自らの指に多額の保険を掛けた際には、少なからぬ世間の顰蹙を集めたとも伝わります。
ヴィルトゥオーゾとしてのクベリークの全盛期は決して長くはなく、遅くとも1910年代の終わりには陰りを見せ始めていたようです。大正期に来日して数回の公演を開いた際にも、その評価はあまり芳しいものではありませんでした。ただ、当時の日本の愛好家達(附記しておくと、世界的に見ても高い水準にありました)が、技巧型の演奏家を必ずしも好んではいなかった、という傾向も関係しているようにも思います。
その頃からクベリークは、演奏よりも作曲に重点を置いた活動に転じました。モーツァルトやベートーヴェン、ブラームス、そしてパガニーニやヴィエニャフスキなど、様々な作曲家によるヴァイオリン協奏曲のカデンツァを手掛けた他、ヴァイオリン小品から管弦楽との協奏的作品などをものしています。しかし、本人が望んだほどの成功には到らなかったようです。
やがて資産運用の失敗に因る経済的な苦境に陥りながら、クベリークは演奏活動を再開しました。息子ラファエルとの共演も、この頃に始まったようです。しかしながら、技巧的な衰えとスタイルの崩れは顕著で、あるコンサートに招かれた恩師シェフチークは、「聴くに堪えない」と、途中で席を立ってしまった、というエピソードも伝わっています。
ともあれ、クベリークは1940年に60歳で没する直前まで、ステージに立ち続けました。録音歴も1902年から開始されており、この当時の演奏家には珍しく、ステージ・キャリアがほぼ完全にレコードによって記録されていることになります。

通常なら、ここから録音そのものについて述べてゆく所なのですが、今回は少し趣向を変えてみたいと思います。

本記事のタイトルのミュシャとは、チェコ出身の画家、他ならぬアルフォンス・ミュシャ(Alfons/Alphonse Mucha 1860-1939)のことです。
クベリークとミュシャとを併記したのは、決して奇を衒ったのでもなく、またこじつけたのでもありません。
両者は1905年にニューヨークで知り合って以来、終生に渡る親交を持ち続けていたとのことです。残念なことに詳しい資料が見つからず、実際にどのようなものであったかまでは知り得ずにいます。しかし、その結びつきが浅からぬものであったということは、プラハはヴィシェフラドの丘、聖ペトル・パヴェル教会の墓地に在る、両者の墓碑が示しているように思われるのです。
スメタナやドヴォルザークも埋葬されているこの墓地の共同部分で、クベリークとミュシャは同一の区画で眠っています。
その経緯は偶然とも必然ともつきませんが、1年違いで没した両者、やはり何らかの遺志あっての事かもしれません。そして1996年に没したラファエル・クーベリックも、生前の意向からこの区画に葬られ、現在は三人の名が共に刻まれた碑銘が嵌め込まれているそうです。


ミュシャが描いた、夢見るように優美なポスター芸術の数々と、クベリークがヴァイオリニストとしての全盛期、1900年代初頭に残した録音群。その両方に接すると、何か共通した趣を感じずにはいられません。
実際にその証左を示し得る復刻CDは、現時点では残念ながら入手困難となっています。

参考までに挙げておくと、

Jan Kubelik The Acoustic Recordings 1902-1913(英Biddulph LAB033-034)

という2枚組のCDが、それです。

Biddulphはイギリスの歴史的録音復刻レーベルで、特にヴァイオリンの音源の充実ぶりは目覚ましいものがありました。トランスファーも丁寧なもので、現在、他のレーベルで盛んに活動している、ウォード・マーストンや、マーク・オバート=ソーンといった名エンジニアが多くのCDを手掛けています。同レーベルは一時期の低迷を経て、最近また活動を再開したようですが、廃盤状態のアイテムが少なくありません。クベリークのみならず、もう一度流通させて欲しいものが沢山あるのですが…。

さて、クベリークの演奏に話題を戻します。
上掲の復刻CDには、今は殆ど演奏されなくなったサロン風の小曲が多数含まれています。前回記事で取り上げたドルドラの作品は、「思い出」「セレナード」「子守歌」「幻影」の4曲。その他にはイタリアの作品が目立ちます。いずれも同国のレーベル、フォノティピア(Fonotipia)への録音であることが関係しているのかもしれません。名ヴァイオリニスト/作曲家、アルフレード・ダンブロジオ(Alfredo d' Ambrosio 1871-1914)の「ロマンス」「セレナード」、ワーグナーとも親交があった作曲家/ピアニスト、ジョヴァンニ・ズガンバーティ(Giovanni Sgambati 1841-1914)の「ナポリのセレナード」、声楽教師としても著名だったアルベルト=イグニオ・ランデガー(Alberto Iginio Randegger 1832-1911)の「ピエロのセレナード」などなど…。
こうした作品の悉くが、クベリークの美音によって淡い光彩を放っています。
カザルスも初期の録音で吹き込んでいる「ナポリのセレナード」は、クベリークの録音の方がよりノスタルジックな雰囲気です。
今や殆ど聴くことも叶わない「ピエロのセレナード」も、実に魅力溢れる佳曲。タイトルが想像させるものは様々ですが、この曲は、涙のメーキャップ、道化のペーソスを見事に描いていると思います。

個別に挙げると、きりがありません。古風なクベリークのスタイルは、こうした忘れられた小品の為に存在するかのようです。古い録音が喚起するノスタルジーの有様も様々ですが、クベリークについては、我々の祖父母や曾祖父母を介しても、もはや届かない彼方に在ることを感じさせます。同年配のティボーや、少し年長のクライスラーよりも、ずっと遠い存在であるように思われるのです。
そんなクベリークの演奏は、まさしくミュシャがポスターに描いた夢幻の美と一致しています。これはシンクロニシティと言うよりは、むしろ両者の芸術が同じ世界に存在しているからなのでしょう。

Biddulph 盤が入手困難である今、このような情緒を偲ぶことが出来るタイトルを1枚ご紹介して、本記事の結びと致します。

「ネリー・メルバ:グラモフォン完全録音集/第3集」(香港Naxos 8.110743)

クベリークが1913年に、オーストラリア出身の伝説的ソプラノ歌手ネリー・メルバ(1861-1931)と共演した、バッハ/グノーの「アヴェ・マリア」と、モーツァルトの歌劇「牧人の王」のアリア、「あの人を愛そう、永遠に」の2曲が収録されています。
あまりにも有名な「アヴェ・マリア」もさることながら、モーツァルトの美しさは、殆ど夢の境地。
第一次世界大戦の勃発と共に雲散霧消した、儚きベル・エポック最後の輝きが、かくして遺されたのです。
 
 


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Monday, September 13, 2004

ニジンスキーのオーケストラ

今回は久しぶりにクラシック音楽の話題を書きたいと思います。

この記事で取り上げるのは、

◆Collection Ernest Ansermet/Volume 1(LYS 451-452)

という2枚組のCD。消失が痛惜されるフランスのレーベル、DANTE-LYSが1999年に発売したもので、エルネスト・アンセルメ(1883-1969)のモノラル音源を集めたシリーズの一編です。
伝説的な名手団体、コンセール・ストララム管弦楽団との録音をはじめ、DECCAが戦後まもなく発売したハイ・ファイ録音の嚆矢、『ペトルーシュカ』 『火の鳥』など、ストラヴィンスキーによる作品を中心に編集されています。

しかし余白には、それよりも強くわたくしを惹きつけてやまない音源が収録されています。
それはアンセルメの初録音、1916年にニューヨークで録音されたというバレエ小品集なのです。

ステレオ・アナログ前期の音源でアンセルメに馴染んだ身としては、録音歴が第1次大戦中に始まっていたという事実自体が既に驚きなのですが、クレジットされている管弦楽団名に目を移すと、更なる驚異を見出すことになります。
"Orchestre des ballet russes de Serge de Diaghilev"、つまりここで演奏しているのは、ディアギレフ主宰するバレエ・リュッス直属の管弦楽団なのです。
華やかなりし時代のバレエ・リュッスの音楽は、その音楽を担っていた、モントゥーやアンセルメ、アンゲルブレシュト、デゾミエール、更に古くはピエルネといった指揮者の録音群によって、偲ぶことが可能です。しかし、リアルタイムで録音されたバレエ・リュッスにまつわる音源が存在するとなると、その意味合いは全く異なるものとなります。
1916年、マイクロフォン発明以前の録音が捉えたオーケストラの音は、後世とは比較にならない位に心細く、編成やダイナミックスも相当な制約下に措かれていると考えて間違いありません。

しかし、そんな悪条件を差し置いてなお、わたくしはこの録音を聴く時には胸中の昂揚感を禁じ得ないのです。

いま、そこで演奏している人々は、僅か数年を遡ると、あの『春の祭典』や『牧神の午後』の舞台と…
…ニジンスキーと共に在った人々なのですから。

『シェエラザード』 『アルミードの館』 『カルナヴァル』 『レ・シルフィード』 ─ ポプリ的に抜粋されたものばかりですが、その悉くは紛れもなくニジンスキーが踊った演目。
そう、この指揮者と、このオーケストラと共に!

ニジンスキーの舞踊を捉えた映像は、一切残されていないと伝わります。
生前のジョルジュ・ドンがNHKのインタビュー(最後の来日公演の時です)の中で、『幸いなことに』という言葉の後、この事実について言及したことが今もって忘れられません。
遙かなるニジンスキーに思いを馳せる時、映像は不要の最たるものに違いないのですから。

反面、『でも…』という気持ちを制することも、やはり難しい。少なくともわたくしにとっては、そうです。
そんなわたくしにとって、アンセルメとバレエ・リュッスのオーケストラが残した録音は、渇を癒して余りある、かけがえのないものです。

無音の印画紙の中でポーズを取るニジンスキー。時間と人々の想いとが堆積したいま、それはまるでヘレニズムのレリーフのよう…。
古いレコードに刻まれた演奏は、朧なものであるがゆえに、却ってニジンスキーの絵姿へと親しく寄り添うことが叶うのではないか。
わたくしには、そう感じられてならないのです。

 
 

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Saturday, September 04, 2004

芸術家の肖像

作品はおろか、本人による録音さえ残されているにも関わらず、その肖像となると皆目お目にかからない芸術家は少なくありません。
たとえばクラシック音楽の場合、歴史的録音のオムニバス盤ともなると、トラックリストにクレジットされているいにしえの名演奏家のうち、一体何人の面相を思い浮かべることができることでしょう?

今回は、そういうお話。

1975年に写真が発見されるまで、長らく肖像が不明だったのは『マルドロールの歌』の、ロートレアモン伯爵(1846-1870)。
ダリをはじめ、様々な人々が想像を膨らませ、幾つもの肖像が生まれました。

ブルースの巨人、ロバート・ジョンソン(1911-1938)。
彼を直接知る人は未だに健在だし、ジョンソン自身が存命していても不思議ではありません。
それにも関わらず、20世紀に生まれ、20世紀に死んだ、この偉大な音楽家の肖像も、没後長い間知られないままでした。
写真が発見・公開されるまでの間、贋物の肖像写真が沢山現れ、更に人々の探求心はモンタージュ写真の作成をも試みました。
有名なストライプのスーツ姿でギターを構えた写真が公表されたのは、1989年のこと。
戦前のブルーズマンには、同じように写真が残っていない人、少なくありません。

オランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の肖像は、ほとんど自画像によってのみ知られてきました。彼をとらえた写真と言えば、僅かに4枚程度が確認されているだけ。うち1枚はセーヌ河畔のテラスで、親友ベルナールと談話する後ろ姿、正面から撮影された写真はいずれも幼年期から少年期にかけてのものばかりです。
そんな彼の肖像写真が近年になって発見され、公表されました。
10年ほど前にTom Stanfordという人物が、マサチューセッツの古物商から僅か1ドルで購入したというその写真。自画像等と対比した医学的な鑑定がなされた結果、ゴッホ本人の写真である可能性が高い、と結論づけられたとのことです。
待望久しい(?)『ゴッホの写真』は、こちらです。
http://www.rp-online.de/layout/showbilder/2138-%7B0CAE9C64-36F4-41DA-9EB7-9C4AC1996809%7D.jpg
ご覧になるか否か、あるいは信じるか否かは皆様にお任せ致します。

実は今回のトピック、もともとはごく最近の個人的な発見がきっかけなのです。
現在でも愛奏される、ヴァイオリン小品の名曲『思い出』(スーヴェニール)、これはボヘミア出身の名ヴァイオリニスト/作曲家、フランティシェク・ドルドラ(1868-1944)によるもの。
わたくしはこの作品が好きで、わけてもドルドラ自身が1920年に吹き込んだ録音を愛聴しているのですが、ドルドラの写真となると、これまで全く目にする機会がありませんでした。
先日、ふと思い立ってGoogleのイメージ検索で調べてみたところ…ありました
個人的にはヒゲもじゃで鼻眼鏡の人物を勝手にイメージしていたので、少し意外な心持ちです。

関連記事>>ドルドラの自作自演を聴く

逆に、全く手がかりを掴めないのが、イタリア出身の作曲家/指揮者、リッカルド・ドリゴ(1846-1930)。
古くから様々な形で愛奏されてきた『ドリゴのセレナード』の作曲者で、指揮者としてはチャイコフスキーの『くるみ割り人形』を初演しています。
先述のイメージ検索を用いても、全く打つ手無し。こればかりはお手上げと言った状態です。
どなたか、ご存知ありませんでしょうか…?
 
 

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